れはと少し気味が悪くなり掛ける途端《とたん》に、向うの顔は急に真面目《まじめ》になった。今まで茶店の婆さんとさる面白い話をしていて、何の気もつかずに、ついそのままの顔を往来へ向けた時に、ふと自分の面相に出《で》っ喰《くわ》したものと見える。ともかく向うが真面目になったのでようやく安心した。安心したと思う間《ま》もなくまた気味が悪くなった。男は真面目になった顔を真面目な場所に据《す》えたまま、白眼《しろめ》の運動が気に掛かるほどの勢いで自分の口から鼻、鼻から額《ひたい》とじりじり頭の上へ登って行く。鳥打帽の廂《ひさし》を跨《また》いで、脳天まで届いたと思う頃また白眼がじりじり下へ降《さが》って来た。今度は顔を素通りにして胸から臍《へそ》のあたりまで来るとちょっと留まった。臍の所には蟇口《がまぐち》がある。三十二銭|這入《はい》っている。白い眼は久留米絣《くるめがすり》の上からこの蟇口を覘《ねら》ったまま、木綿《もめん》の兵児帯《へこおび》を乗り越してやっと股倉《またぐら》へ出た。股倉から下にあるものは空脛《からすね》ばかりだ。いくら見たって、見られるようなものは食《く》ッ附《つ》いちゃいない。ただ不断より少々重たくなっている。白い眼はその重たくなっている所を、わざっと、じりじり見て、とうとう親指の痕《あと》が黒くついた俎下駄《まないたげた》の台まで降《くだ》って行った。
こう書くと、何だか、長く一所《ひとところ》に立っていて、さあ御覧下さいと云わないばかりに振舞ったように思われるがそうじゃない。実は白い眼の運動が始まるや否《いな》や急に茶店へ休むのが厭《いや》になったから、すたすた歩き出したつもりである。にもかかわらず、このつもりが少々|覚束《おぼつか》なかったと見えて、自分が親指にまむしを拵《こしら》えて、俎下駄を捩《ねじ》る間際《まぎわ》には、もう白い眼の運動は済んでいた。残念ながら向うは早いものである。じりじり見るんだから定めし手間が掛かるだろうと思ったら大間違い。じりじりには相違ない、どこまでも落ちついている。がそれで滅法《めっぽう》早い。茶屋の前を通り越しながら、世の中には、妙な作用を持ってる眼があるものだと思ったくらいである。それにしても、ああ緩《ゆっ》くり見られないうちに、早く向き直る工夫はなかったもんだろうか。さんざっ腹《ぱら》冷《ひや》かされて、さ
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