た上に獣慾の脂《あぶら》が浮いているところばかり眼に着いて、どれも、これも差別がないように思われた。それが三度四度と重なるにつけて、四人五人と人相の区別ができるに連れて、この坑夫だけが一際《ひときわ》目立って見えるようになった。年はまだ三十にはなるまい。体格は倔強《くっきょう》である。眉毛《まみえ》と鼻の根と落ち合う所が、一段奥へ引っ込んで、始終《しじゅう》鼻眼鏡で圧《お》しつけてるように見える。そこに疳癪《かんしゃく》が拘泥《こうでい》していそうだが、これがために獰猛の度はかえって減ずると云っても好いような特徴であった。――この坑夫が始めてこの時口を利《き》いた。――
「なぜこんな所へ来た。来たって仕方がないぜ。儲《もう》かる所じゃない。ここにいる奴あ、みんな食詰《くいつめ》ものばかりだ。早く帰るが好かろう。帰って新聞配達でもするがいい。おれも元はこれで学校へも通《かよ》ったもんだが、放蕩《ほうとう》の結果とうとう、シキ[#「シキ」に傍点]の飯を食うようになっちまった。おれのようになったが最後もう駄目だ。帰ろうたって、帰れなくなる。だから今のうちに東京へ帰って新聞配達をしろ。書生はとても一月《ひとつき》と辛抱は出来ないよ。悪い事は云わねえから帰れ。分ったろう」
これは比較的|真面目《まじめ》な忠告であった。この忠告の最中は、さすがの獰悪派《どうあくは》もおとなしく交《まぜ》っ返しもせずに聞いていた。その惰性で忠告が済んだあとも、一時は静であった。もっともこれはこの坑夫に多少の勢力があるんで、その勢力に対しての遠慮かも知れないと勘づいた。その時自分は何となく心の底で愉快だった。この坑夫だって、ほかの坑夫だって、人相にこそ少しの変化はあれ、やっぱり一つ穴でこつこつ鉱塊《あらがね》を欠いている分の事だろう。そう芸に巧拙《こうせつ》のあるはずはない。して見ると、この男の勢力は全く字が読めて、物が解って、分別があって――一口に云うと教育を受けたせいに違ない。自分は今こんなに馬鹿にされている。ほとんど最下等の労働者にさえ歯《よわい》されない人非人《にんぴにん》として、多勢《たぜい》の侮辱を受けている。しかし一度この社会に首を突込《つっこ》んで、獰猛組《どうもうぐみ》の一人となりすましたら、一月二月と暮して行くうちには、この男くらいの勢力を得る事はできるかも知れない。できるだ
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