を気の毒に思うのあまり、この生意気を生意気と知りながら大目に見てくれたもんだから、どやされずに済んだ。まことにありがたい。この飯場に住み込んだあとで、頭《かしら》の勢力の広大なるに驚くにつれて、僕は知ってるです[#「僕は知ってるです」に傍点]を思い出しては独《ひと》り赧《あか》い顔をしていた。ついでに云うがこの頭の名は原駒吉《はらこまきち》である。今もって自分は好い名だと思ってる。
 原さんは別に厭《いや》な顔つきもせずに、黙って自分の言訳を聞いていたが、やがて頭《あたま》を振り出した。その頭は大きな五分刈《ごぶがり》で額の所が面摺《めんずれ》のように抜き上がっている。
「そりゃ物数奇《ものずき》と云うもんでさあ。せっかく来たから是非やるったって、何も家《うち》を出る時から坑夫になると思いつめた訳でもないんでしょう。云わば一時《いちじ》の出来心なんだからね。やって見りゃ、すぐ厭になっちまうな眼に見えてるんだから、廃《よ》すが好《よ》うがしょう。現に書生さんでここへ来て十日と辛抱したものあ、有りゃしませんぜ。え? そりゃ来る。幾人《いくたり》も来る。来る事は来るが、みんな驚いて逃げ出しちまいまさあ。全く普通《なみ》のものの出来る業《わざ》じゃありませんよ。悪い事は云わないから御帰んなさい。なに坑夫をしなくったって、口過《くちすぎ》だけなら骨は折れませんやあ」
 原さんはここに至って、胡坐《あぐら》を崩《くず》して尻を宙に上げかけた。自分はどうしても落第しそうな按排《あんばい》である。大いに困った。困った結果、坑夫と云う事から気を離して、自分だけを検査して見ると、――何だか急に寒くなった。袷《あわせ》はさっきの雨で濡《ぬ》れている。洋袴下《ズボンした》は穿《は》いていない。東京の五月もこの山の奥へ来るとまるで二月か三月の気候である。坂を登っている間こそ体温でさほどにも思わなかった。原さんに拒絶されるまでは気が張っていたから、好かった。しかし飯場《はんば》へ来て休息した上に、坑夫になる見込がほとんど切れたとなると、情《なさけ》ないのが寒いのと合併して急に顫《ふる》え出した。その時の自分の顔色は定めし見るに堪《た》えんほど醜いもんだったろう。この時自分はまた何となく、今しがた自分を置去《おきざり》にして、挨拶《あいさつ》もしずに出て行った長蔵さんが恋しくなった。長蔵さんがい
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