たものじゃないから、小説のように面白くはない。その代り小説よりも神秘的である。すべて運命が脚色した自然の事実は、人間の構想で作り上げた小説よりも無法則である。だから神秘である。と自分は常に思っている。
赤毛布と小僧が連れて行かれたのは後の事だが、自分らが飯場に到着した時は無論二人ともいっしょであった。ここで長蔵さんがいよいよ坑夫志願の談判を始めた。談判と云うと面倒なようだが、その実|極《きわ》めて簡単なものであった。ただ、この男は坑夫になりたいと云うから、どうか使ってくれと云ったばかりである。自分の姓名も出生地《しゅっしょうち》も身元も閲歴も何にも話さなかった。もちろん話したくったって、知らないんだから、話せようもないんだが、こうまで手っ取り早く片づける了簡《りょうけん》とは思わなかった。自分は中学校へ入学した時の経験から、いくら坑夫だって、それ相応の手続がなくっちゃ採用されないもんだとばかり思っていた。大方身元引受人とか保証人とか云うものが証文へ判でも捺《お》すんだろう、その時は長蔵さんにでも頼んで見ようくらいにまで、先廻りをして考えていた。ところが案に相違して、談判を持ち込まれた飯場頭《はんばがしら》は――飯場頭だか何だかその時は無論知らなかった。眉毛《まゆげ》の太くって蒼髯《あおひげ》の痕《あと》の濃い逞《たくま》しい四十|恰好《がっこう》の男だった。――その男が長蔵さんの話を一通り聞くや否や、
「そうかい、それじゃ置いておいで」
とさも無雑作《むぞうさ》に云っちまった。ちょうど炭屋が土釜《どがま》を台所へ担《かつ》ぎ込んだ時のように思われた。人間が遥々《はるばる》山越《やまごえ》をして坑夫になりに来たんだとは認めていない。そこで自分は少々腹の中《うち》でこの飯場頭を恨《うら》んだが、これは自分の間違であった。その訳は今|直《すぐ》に分る。
飯場頭と云うのは一《ひとつ》の飯場を預かる坑夫の隊長で、この長屋の組合に這入る坑夫は、万事この人の了簡《りょうけん》しだいでどうでもなる。だからはなはだ勢力がある。この飯場頭と一分時間《いっぷんじかん》に談判を結了した長蔵さんは、
「じゃ、よろしくお頼みもうします」
と云ったなり、赤毛布《あかげっと》と小僧を連れて出て行った。また帰ってくる事と思ったが、その後《ご》いっこう影も形も見せないんで、全く、置去《おきざり》に
前へ
次へ
全167ページ中73ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング