は自分が黙って橋の向《むこう》を覗《のぞ》き込んでるのを見て、
「好いかね、御前さん、大丈夫かい」
とまた聞き直したから、自分は、
「好いです」
と明瞭《めいりょう》に答えたが、内心あまり好くはなかった。なぜだかしらないが、長蔵さんはただ自分にだけ懸念《けねん》がある様子であった。赤毛布《あかげっと》と小僧には「好いかね」とも「大丈夫かい」とも聞かなかった。頭からこの両人《ふたり》は過去の因果《いんが》で、坑夫になって、銅山のうちに天命を終るべきものと認定しているような気色《けしき》がありありと見えた。して見ると不信用なのは自分だけで、だいぶ長蔵さんからこいつは危《あぶ》ないなと睨《にら》まれていたのかも知れない。好い面《つら》の皮だ。
 それから四人|揃《そろ》って、橋を渡って行くと、右手に見える家にはなかなか立派なのがある。その中《うち》で一番いかめしい奴《やつ》を指《さ》して、あれが所長の家《うち》だと長蔵さんが教えてくれた。ついでに左の方を見ながら
「こっちがシキ[#「シキ」に傍点]だよ、御前さん、好いかね」
と云う。自分はシキ[#「シキ」に傍点]と云う言葉をこの時始めて聞いた。
 よっぽど聞き返そうかと思ったが、大方これがシキ[#「シキ」に傍点]なんだろうと思って黙っていた。あとから自分もこのシキ[#「シキ」に傍点]と云う言葉を明瞭《めいりょう》に理解しなければならない身分になったが、やっぱり始めにぼんやり考えついた定義とさした違もなかった。そのうち左へ折れていよいよシキ[#「シキ」に傍点]の方へ這入《はい》る事になった。鉄軌《レール》についてだんだん上《のぼ》って行くと、そこここに粗末な小さい家がたくさんある。これは坑夫の住んでる所だと聞いて、自分も今日から、こんな所で暮すのかと思ったが、それは間違であった。この小屋はどれも六畳と三畳|二間《ふたま》で、みんな坑夫の住んでる所には違ないが、家族のあるものに限って貸してくれる規定であるから、自分のような一人ものは這入りたくたって這入れないんだった。こう云う小屋の間を縫って、飽《あ》きずに上《のぼ》って行くと、今度は石崖《いしがけ》の下に細長い横幅ばかりの長屋が見える。そうして、その長屋がたくさんある。始めはわずか二三軒かと思ったら、登るに従って続々あらわれて来た。大きさも長さも似たもんで、みんな崖下《がけし
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