く出たんじゃ、けっしてない。するとどてら[#「どてら」に傍点]の方でも自分を同程度の人間と見做《みな》したような語気で、
「御前《おまえ》さん、働く了簡《りょうけん》はないかね」
と云った。自分は今が今まで暗い所へ行くよりほかに用のない身と覚悟していたんだから、藪《やぶ》から棒《ぼう》に働く了簡はないかねと聞かれた時には、何と答えて善《い》いか、さっぱり訳《わけ》が分らずに、空脛《からすね》を突っ張ったまま、馬鹿見たような口を開けて、ぼんやり相手を眺《なが》めていた。
「御前さん、働く了簡はないかね。どうせ働かなくっちゃならないんだろう」
とどてら[#「どてら」に傍点]がまた問い返した。問い返された時分にはこっちの腹も、どうか、こうか、受け答の出来るくらいに眼前の事況《じきょう》を会得《えとく》するようになった。
「働いても善《い》いですが」
 これは自分の答である。しかしこの答がいやしくも口に出て来るほどに、自分の頭が間に合せの工面にせよ、やっと片づいたと云うものは、単純ながら一順の過程を通っておる。
 自分はどこへ行くんだか分らないが、なにしろ人のいないところへ行く気でいた。のに振り向いてどてら[#「どてら」に傍点]の方へあるき出したのだから、歩き出しながら何となく自分に対して憫然《びんぜん》な感がある。と云うものはいくらどてら[#「どてら」に傍点]でも人間である。人間のいない方へ行くべきものが、人間の方へ引き戻されたんだから、ことほどさように人間の引力が強いと云う事を証拠立てると同時に、自分の所志にもう背《そむ》かねばならぬほどに自分は薄弱なものであったと云う事をも証拠立てている。手短《てみじか》に云うと、自分は暗い所へ行く気でいるんだが、実のところはやむを得ず行くんで、何か引っかかりが出来れば、得《え》たり賢《かしこ》しと普通の娑婆《しゃば》に留まる了簡なんだろうと思われる。幸いに、どてら[#「どてら」に傍点]が向うから引っかかってくれたんで、何の気なしに足が後向《うしろむ》きに歩き出してしまったのだ。云わば自分の大目的に申し訳のない裏切りをちょっとして見た訳になる。だからどてら[#「どてら」に傍点]が働く気はないかねと出てくれずに、御前さん野にするかね、それとも山にするかねとでも切り出したら、しばらく安心して忘れかけた目的を、ぎょっと思い出させられて、急に
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