成程《なるほど》是等《これら》の作物は第一義の道念に触れて居るかも知れぬ。然し其第一義というのは生死界中に在《あ》っての第一義である。どうしても生死を脱離し得ぬ煩脳底《ぼんのうてい》の第一義である。人生観が是より以上に上れぬとすると是が絶対的に第一義かも知れぬが、もし生死の関門を打破して二者を眼中に措《お》かぬ人生観が成立し得るとすると今の所謂《いわゆる》第一義は却《かえ》って第二義に堕在するかも知れぬ。俳味禅味の論がここで生ずる。
 余は禅というものを知らない。昔《むか》し鎌倉の宗演和尚に参して父母未生以前《ふもみしょういぜん》本来の面目はなんだと聞かれてがんと参ったぎりまだ本来の面目に御目《おめ》に懸《かか》った事のない門外漢である。だからここに禅味|抔《など》という問題を出すのは自分が禅を心得て居るから云うのではない。智識《ちしき》のかいたものに悟とはこんなものであるとあるから果《はた》してそんなものなら、こう云う人生観が出来るだろう。こう云う人生観が出来るならば小説もこんな態度にかけるだろうと論ずるまでである。
 禅坊主の書いた法語とか語録とか云うものを見ると魚が木に登ったり牛が水底をあるいたり怪《け》しからん事|許《ばか》りであるうちに、一貫して斯《こ》う云う事がある。着衣喫飯の主人公たる我は何物ぞと考え考えて煎《せん》じ詰《つ》めてくると、仕舞《しまい》には、自分と世界との障壁《しょうへき》がなくなって天地が一枚で出来た様な虚霊皎潔《きょれいこうけつ》な心持になる。それでも構わず元来吾輩は何だと考えて行くと、もう絶体絶命にっちもさっちも行かなくなる、其所《そこ》を無理にぐいぐい考えると突然と爆発して自分が判然と分る。分るとこうなる。自分は元来生れたのでもなかった。又死ぬものでもなかった。増しもせぬ、減《へ》りもせぬ何《な》んだか訳の分らないものだ。
 しばらく彼等の云う事を事実として見ると、所謂《いわゆる》生死の現象は夢の様なものである。生きて居たとて夢である。死んだとて夢である。生死とも夢である以上は生死界中に起る問題は如何《いか》に重要な問題でも如何に痛切な問題でも夢の様な問題で、夢の様な問題以上には登らぬ訳である。従って生死界中にあって最も意味の深い、最も第一義なる問題は悉《ことごと》く其|光輝《こうき》を失ってくる。殺されても怖くなくなる。金を貰っても難有《ありがた》くなくなる。辱《はずか》しめられても恥とは思わなくなる。と云うものは凡《すべ》て是等《これら》の現象界の奥に自己の本体はあって、此流俗と浮沈するのは徹底に浮沈するのではない。しばらく冗談半分《じょうだんはんぶん》に浮沈して居るのである。いくら猛烈に怒っても、いくらひいひい泣いても、怒りが行き留りではない、涙が突き当りではない。奥にちゃんと立《た》ち退《の》き場《ば》がある。いざとなれば此|立退場《たてのきば》へいつでも帰られる。しかも此立退場は不増である。不減である。いくら天下様の御威光でも手のつけ様のない安全な立退場である。此立退場を有《も》って居る人の喜怒哀楽と、有たない人の喜怒哀楽とは人から見たら一様かも知れないが之《これ》を起す人之を受ける人から云うと莫大《ばくだい》な相違がある。従って流俗で云う第一義の問題も此見地に住する人から云うと第二義以下に堕《お》ちて仕舞《しま》う。従がって我等から云ってセッパ詰った問題も此人等から云うと余裕のある問題になる。
 所謂《いわゆる》禅味と云うものを解釈した人があるかないか知らないが、禅坊主の趣味だから禅味と云うのだろう。そうして禅坊主の悟りと云うものが彼等の云う通りのものであったなら余の解釈に間違はなかろうと思う。して見ると禅味と云う事は暗《あん》に余裕のある文学と云う意味に一致する。そうしてその余裕は生死以上に第一義を置くから出てくる。
 余は虚子の小説を評して余裕があると云った。虚子の小説に余裕があるのは果《はた》して前条の如く禅家の悟を開いた為かどうだか分らない。只《ただ》世間ではよく俳味禅味と並べて云う様である。虚子は俳句に於て長い間苦心した男である。従がって所謂《いわゆる》俳味なるものが流露して小説の上にあらわれたのが一見禅味から来た余裕と一致して、こんな余裕を生じたのかも知れない。虚子の小説を評するに方《あた》っては是丈《これだけ》の事を述べる必要があると思う。
 尤《もっと》も虚子もよく移る人である。現に集中でも秋風なんと云うのは大分風が違って居る。それでも比較的痛切な題目に対する虚子の叙述的態度は依然として余裕がある様である。虚子は畢竟《ひっきょう》余裕のある人かも知れない。
  明治四十年十一月



底本:「筑摩全集類聚版 夏目漱石全集 10」筑摩書房 
   1972(昭和4
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