はない。昔し以太利の大家アンドレア、デルサルトが言つた事がある。畫をかくなら何でも自然其物を寫せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに禽あり。走るに獸あり。池に金魚あり。枯木に寒鴉[#底本は、「鴉」の「牙」の上に「一」がついている]あり。自然は是一幅の大活畫なりと。どうだ君も畫らしい畫をかゝうと思ふならちと寫生をしたら」
「へえアンドレア、デル、サルトがそんな事をいつた事があるかい。ちつとも知らなかつた。成程こりや尤もだ。實に其通りだ」と主人は無暗に感心して居る。金縁の裏には嘲ける樣な笑が見えた。
 其翌日吾輩は例の如く椽側に出て心持善く晝寐をして居たら、主人が例になく書齋から出て來て吾輩の後ろで何かしきりにやつて居る。不圖眼が覺めて何をして居るかと一分許り細目に眼をあけて見ると、彼は餘念もなくアンドレア、デル、サルトを極め込んで居る。余は此有樣を見て覺えず失笑するのを禁じ得なかつた。彼は彼の友に揶揄せられたる結果として先づ手初めに吾輩を寫生しつゝあるのである。我輩は既に十分寢た。欠伸がしたくて堪らない。然し切角主人が熱心に筆を執つて居るのを動いては氣の毒だと思ふて、ぢつと辛棒して居つた。彼は今我輩の輪廓をかき上げて顏のあたりを色彩つて居る。我輩は自白する。我輩は猫として决して上乘の出來ではない。脊といひ毛並といひ顏の造作といひ敢て他の猫に勝るとは决して思つて居らん。然しいくら不器量の我輩でも、今我輩の主人に描き出されつゝある樣な妙な姿とは、どうしても思はれない。第一色が違ふ。我輩は波斯産の猫の如く黄を含める淡灰色に漆の如き斑入りの皮膚を有して居る。是丈は誰が見ても疑ふべからざる事實と思ふ。然るに今主人の彩色を見ると、黄でもなければ黒でもない、灰色でもなければ褐色でもない、去ればとて是等を交ぜた色でもない。只一種の色であるといふより外に評し方のない色である。其上不思議な事は眼がない。尤も是は寢て居る所を寫生したのだから無理もないが眼らしい所さへ見えないから盲猫(めくら)[#「盲」の「目」は、底本では「月」]だか寢て居る猫だか判然しないのである。吾輩は心中ひそかにいくらアンドレア、デル、サルトでも是では仕樣がないと思つた。然し其熱心には感服せざるを得ない。可成なら動かずに居つてやり度と思つたが、先っき[#「っ」は底本のまま]から小便が催ふして居る。身内の筋肉はむづ/\する。最早一分も猶豫が出來ぬ仕儀となつたから、不已得失敬して兩足を前へ存分のして、首を低く押し出してあ―あと大なる欠伸をした。さてかうなつて見ると、もう大人しくして居ても仕方がない。どうせ主人の豫定は打ち壞はしたのだから、序に裏へ行つて用を足さうと思つてのそ/\這ひ出した。すると主人は失望と怒りを掻き交ぜた樣な聲をして、座敷の中から此―馬鹿―野―郎と怒鳴つた。此主人は人を罵るときは必す馬鹿野郎といふのが癖である。外に惡口の言ひ樣を知らないのだから仕方がないが、今迄辛棒した人の氣も知らないで、無暗に馬鹿野郎呼はりは失敬だと思ふ。それも平生吾輩が彼の脊中へ乘る時に少しは好い顏でもするなら此漫罵も甘んじて受けるが、こつちの便利になる事は何一つ快くしてくれた事もないのに、小便に立つたのを馬鹿野郎とは酷い。元來人間といふものは自己の力量に慢じて皆んな増長して居る。少し人間より強いものが出て來て窘めてやらなく[#「やらなく」は底本では「やならく」]ては此先どこ迄増長するか分らない。
 我儘も此位なら我慢するが余輩は人間の不徳について是よりも數倍悲しむべき報道を耳にした事がある。
 我輩の家の裏に十坪許りの茶園がある。廣くはないが瀟洒(さつぱり)とした心持ち好く日の當る所だ。うちの小供があまり騷いで樂々晝樂[#「晝樂」は底本のまま]の出來ない時や、餘り退屈で腹加減のよくない折抔は、吾輩はいつでも此所へ出て浩然の氣を養ふのが例である。ある小春の穩かな日の二時頃であつたが、吾輩は晝飯後快よく一睡した後、運動かたがたこの茶園へと歩を運ばした。茶の木の根を一本/\臭ぎながら、西側の杉垣のそばまでくると、枯菊を押し倒して其上に大きな猫が前後不覺に寐て居る。彼は吾輩の近付くのも一向心付かざる如く、又心付くも無頓着なる如く、大きな鼾をして長々と體を横へて眠て居る。他の庭内に忍び入りたるものが斯く迄平氣に睡られるものかと、吾輩は竊かに其大膽なる度胸に驚かざるを得なかつた。彼は純粹の黒猫である。僅かに午を過ぎたる太陽は、透明なる光線を彼の皮膚の上に抛げかけて、きら/\する柔毛の間より、眼に見えぬ炎でも燃え出づる樣に思はれた。彼は猫中の大王とも云ふべき程の偉大なる體格を有して居る。吾輩の倍は慥かにある。吾輩は嘆賞の念と、好奇の心に前後を忘れて彼の前に佇立して餘念もなく眺めて居ると、靜かなる小春の風が、杉垣の上から出たる梧桐の枝を輕く誘つてばら/\と二三枚の葉が枯菊の茂みに落ちた。大王はくわつと其眞丸の眼を開いた。今でも記憶して居る。其眼は人間の珍重する琥珀といふものよりも遙かに美しく輝いて居た。彼は身動きもしない。双眸の奧から射る如き光を吾輩の矮小なる額の上にあつめて。御―め―へは一體何だと云つた。大王にしては少々言葉が卑しいと思つたが何しろ其聲の底に犬をも挫しくべき力が籠つて居るので吾輩は少なからず恐れを抱いた。然し拶挨をしないと險呑だと思つたから「吾輩は猫である。名前はまだない」と可成平氣を裝つて冷然と答へた。然し此時余の心臟は慥かに平時よりも烈しく鼓動して居つた。彼は大に輕蔑せる調子で「何、猫だ?猫が聞いてあきれらあ。全てえ何こに住んでるんだ」隨分傍若無人である。「吾輩はこゝの教師の家に居るのだ」「どうせそんな事だらうと思つた。いやに瘠てるぢやねえか」と大王丈に氣焔を吹きかける。言葉付から察するとどうも良家の猫とも思はれない。然し其膏切つて肥滿して居る所を見ると御馳走を食つてるらしい、豐かに暮して居るらしい。吾輩は「さう云ふ君は一體誰だい」と聞かざるを得なかつた。「己れあ車屋の黒よ」昂然たるものだ。車屋の黒は此近邊で知らぬ者なき亂暴猫である。然し車屋丈に強い許りでちつとも教育がないからあまり誰も交際しない。同盟敬遠主義の的になつて居る奴だ。吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起すと同時に、一方では少々輕侮の念も生じたのである。吾輩は先づ彼がどの位無學であるかを試して見樣と思つて左の問答をして見た。
「一體車屋と教師とはどつちがえらいだらう。」
「車屋の方が強いた極つて居らあな。御―め―へのう―ちの主人を見ねえ、丸で骨と皮ばかりだぜ。」
「君も車屋の猫丈に大分強さうだ。車屋に居ると御馳走が食へると見えるね。」
「何にお―れなんざ、どこの國へ行つたつて食ひ物に不自由はしねえ積りだ。御―め―へなんかも茶畠ばかりぐるぐる廻つて居ねえで、ちつと己の後(あと)へくつ付いて來て見ねえ。一と月たゝねえうちに見違へる樣に太れるぜ。」
「追つてさう願ふ事に仕樣。然し家は教師の方が車屋より大きいのに住んで居る樣に思はれる。」
「箆棒め、うちなんかいくら大きくたつて腹の足しになるもんか。」
 彼は大に肝癪に障つた樣子で、寒竹をそいだ樣な耳を頻りとぴく付かせてあらゝかに立ち去つた。余が車屋の黒と知己になつたのはこれからである。[#「。」は底本にはない]
 其後吾輩は度々黒と邂逅する。邂逅する毎に彼は車屋相當の氣焔を吐く。先に吾輩が耳にしたといふ不徳事件も實は黒から聞いたのである。
 或る日例の如く吾輩と黒は暖かい茶畠の中で寐轉びながら色々雜談をして居ると、彼はいつもの自慢話しを左も新しさうに繰り返したあとで、吾輩に向つて下の如く質問した。「御―め―へは今迄に鼠を何匹とつた事がある」智識は黒よりも餘程發達して居る積りだが腕力と勇氣とに至つては到底黒の比較にはならないと覺悟はして居たものゝ、此問に接したる時は、さすがに極りが善くはなかつた。けれども事實は事實で詐る譯には行かないから、吾輩は「實はとらう/\と思つてまだ捕らない」と答へた。黒は彼の鼻の先からぴんと突張つて居る長い髭をびり/\と震はせて非常に笑つた。元來黒は自慢をする丈にどこか足りない所があつて、彼の氣焔を感心した樣に咽喉をころ/\鳴らして謹聽して居れば甚だ御し易い猫である。吾輩は彼と近付になつてから直に此呼吸を飮み込んだから[#「から」は底本では「たら」]此塲合にもなまじい己れを辯護して益形勢をわるくするのも愚である、いつその事彼に自分の手柄話をしやべらして御茶を濁すに若くはないと思案を定めた。そこで大人なしく「君抔は年が年であるから大分とつたらう」とそゝのかして見た。果然彼は墻壁の缺所に吶喊して來た。「たんとでもねえが三四十はとつたらう」とは得意氣なる彼の答であつた。彼は猶語をつゞけて[#「て」は底本では「で」]「鼠の百や二百は一人でいつでも引き受けるがい―た―ちつてえ奴は手に合はねえ。一度い―た―ちに向つて酷い目に逢つた。」「へえ成程」と相槌を打つ。黒は大きな眼をぱちつかせて云ふ。「去年の大掃除の時だ。うちの亭主が石灰の袋を持つて椽の下へ這ひ込んだら御―め―え大きない―た―ちの野郎が面喰つて飛び出したと思ひねえ」「ふん」と感心して見せる。「い―た―ちつてけども何鼠の少し大きいぐれえのものだ。此畜生つて氣で追つかけてとう/\泥溝(どぶ)の中へ追ひ込んだと思ひねえ」「うまく遣つたね」と喝采してやる。「所が御め―えい―ざって―え段になると奴め最後っ屁をこきやがつた。臭えの臭くねえのって夫からってえものはい―た―ちを見ると胸が惡くならあ」彼は是に至つて恰も去年の臭氣を今猶感ずる如く前足を揚げて鼻の頭を二三遍なで廻はした。吾輩も少々氣の毒な感じがする。ちつと景氣を付けてやらうと思つて「然し鼠なら君に睨まれては百年目だらう。君は餘り鼠を捕るのが名人で鼠許り食ふものだからそんなに肥つて色つやが善いのだらう」黒の御機嫌をとる爲めの此質問は不思議にも反對の結果を呈出した。彼は喟然として大息していふ。「考げえると誥らねえ。いくら稼いで鼠をとつたつて――一てえ人間程ふてえ奴は世の中に居ねえぜ。人のとつた鼠を皆んな取り上げやがって交番へ持つて行きあがる。交番じや誰が捕つたか分らねえから其た―ん―びに五錢宛くれるぢやねえか。うちの亭主なんか己の御蔭でもう壹圓五十錢位儲けて居やがる癖に、碌なものを食せた事もありやしねえ。おい人間てものあ體の善い泥棒だぜ」さすが無學の黒も此位の理窟はわかると見えて頗る怒つた容子で脊中の毛を逆立てゝ居る。吾輩は少々氣味が惡くなつたから善い加減に其塲を胡魔化して家へ歸つた。此時から吾輩は决して鼠をとるまいと决心した。然し黒の子分になつて鼠以外の御馳走を獵つてあるく事もしなかつた。御馳走を食ふよりも寢て居た方が氣樂でいゝ。教師の家に居ると猫も教師の樣な性質になると見える。要心しないと今に胃弱になるかも知れない。
 教師といへば吾輩の主人も近頃に至つては到底水彩畫に於て望のない事を悟つたものと見えて十二月一日の日記にこんな事をかきつけた。[#「。」は底本にはない]
[#引用文、本文より2字下げ]
○○と云ふ人に今日の會で始めて出逢つた。あの人は大分放蕩をした人だと云ふが成程通人らしい風采をして居る。かう云ふ質の人は女に好かれるものだから○○が放蕩をしたと云ふよりも放蕩をする可く餘儀なくせられたと云ふのが適當であらう。あの人の妻君は藝者ださうだ、羨[#「羨」の さんずい は、底本では にすい]しい事である。元來放蕩家を惡くいふ人の大部分は放蕩をする資格のないものが多い。又放蕩家を以つて自任する連中のうちにも、放蕩する資格のないものが多い。是等は餘儀なくされないのに無理に進んでやるのである。恰も我輩の水彩畫に於るが如きもので到底卒業する氣づかひはない。然るにも關せず、自分丈は通人だと思つて濟して居る。料理屋の酒を飮んだり待合へ這入るから通人となり得るといふ論が立つなら、我輩も一廉の水彩畫家になり得る理窟だ。我輩の水彩畫の如きはかゝない方がまし
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