る。最早一分も猶豫が出來ぬ仕儀となつたから、不已得失敬して兩足を前へ存分のして、首を低く押し出してあ―あと大なる欠伸をした。さてかうなつて見ると、もう大人しくして居ても仕方がない。どうせ主人の豫定は打ち壞はしたのだから、序に裏へ行つて用を足さうと思つてのそ/\這ひ出した。すると主人は失望と怒りを掻き交ぜた樣な聲をして、座敷の中から此―馬鹿―野―郎と怒鳴つた。此主人は人を罵るときは必す馬鹿野郎といふのが癖である。外に惡口の言ひ樣を知らないのだから仕方がないが、今迄辛棒した人の氣も知らないで、無暗に馬鹿野郎呼はりは失敬だと思ふ。それも平生吾輩が彼の脊中へ乘る時に少しは好い顏でもするなら此漫罵も甘んじて受けるが、こつちの便利になる事は何一つ快くしてくれた事もないのに、小便に立つたのを馬鹿野郎とは酷い。元來人間といふものは自己の力量に慢じて皆んな増長して居る。少し人間より強いものが出て來て窘めてやらなく[#「やらなく」は底本では「やならく」]ては此先どこ迄増長するか分らない。
 我儘も此位なら我慢するが余輩は人間の不徳について是よりも數倍悲しむべき報道を耳にした事がある。
 我輩の家の裏に十坪
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