」]
 自分が今迄「吾輩は猫である」を草しつゝあつた際、一面識もない人が時々書信又は繪端書抔をわざ/\寄せて意外の褒辭を賜はつた事がある。自分が書いたものが斯んな見ず知らずの人から同情を受けて居ると云ふ事を發見するのは非常に難有い。今出版の機を利用して是等の諸君に向つて一言感謝の意を表する。
 此書は趣向もなく、搆造もなく、尾頭の心元なき海鼠の樣な文章であるから、たとひ此一卷で消えてなくなつた所で一向差し支へはない。又實際消えてなくなるかも知れん。然し將來忙中に閑を偸んで硯の塵を吹く機會があれは再び稿を續ぐ積である。猫が生きて居る間は――猫が丈夫で居る間は――猫が氣が向くときは――余も亦筆を執らねばならぬ。

 明治三十八年九月  夏目漱石



 第一

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生まれたか頓と見當がつかぬ。何ても暗薄いじめじめした所でニャー/\泣いて居た事丈は記憶して居る。吾輩はこゝで始めて人間といふものを見た。然もあとで聞くとそれは書生といふ人間で一番獰惡な種族であつたさうだ。此書生といふのは時々我々を捕へて煮て食ふといふ話である。然し其當時は何といふ考もなかつ
前へ 次へ
全26ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング