轣A気の毒ながら御櫃《おはち》の上から黙って見物して「た。
 寒月君と出掛けた主人はどこをどう歩行《ある》いたものか、その晩遅く帰って来て、翌日食卓に就《つ》いたのは九時頃であった。例の御櫃の上から拝見していると、主人はだまって雑煮《ぞうに》を食っている。代えては食い、代えては食う。餅の切れは小さいが、何でも六切《むきれ》か七切《ななきれ》食って、最後の一切れを椀の中へ残して、もうよそうと箸《はし》を置いた。他人がそんな我儘《わがまま》をすると、なかなか承知しないのであるが、主人の威光を振り廻わして得意なる彼は、濁った汁の中に焦《こ》げ爛《ただ》れた餅の死骸を見て平気ですましている。妻君が袋戸《ふくろど》の奥からタカジヤスターゼを出して卓の上に置くと、主人は「それは利《き》かないから飲まん」という。「でもあなた澱粉質《でんぷんしつ》のものには大変功能があるそうですから、召し上ったらいいでしょう」と飲ませたがる。「澱粉だろうが何だろうが駄目だよ」と頑固《がんこ》に出る。「あなたはほんとに厭《あ》きっぽい」と細君が独言《ひとりごと》のようにいう。「厭きっぽいのじゃない薬が利かんのだ」「それだってせんだってじゅうは大変によく利くよく利くとおっしゃって毎日毎日上ったじゃありませんか」「こないだうちは利いたのだよ、この頃は利かないのだよ」と対句《ついく》のような返事をする。「そんなに飲んだり止《や》めたりしちゃ、いくら功能のある薬でも利く気遣《きづか》いはありません、もう少し辛防《しんぼう》がよくなくっちゃあ胃弱なんぞはほかの病気たあ違って直らないわねえ」とお盆を持って控えた御三《おさん》を顧みる。「それは本当のところでございます。もう少し召し上ってご覧にならないと、とても善《よ》い薬か悪い薬かわかりますまい」と御三は一も二もなく細君の肩を持つ。「何でもいい、飲まんのだから飲まんのだ、女なんかに何がわかるものか、黙っていろ」「どうせ女ですわ」と細君がタカジヤスターゼを主人の前へ突き付けて是非|詰腹《つめばら》を切らせようとする。主人は何にも云わず立って書斎へ這入《はい》る。細君と御三は顔を見合せてにやにやと笑う。こんなときに後《あと》からくっ付いて行って膝《ひざ》の上へ乗ると、大変な目に逢《あ》わされるから、そっと庭から廻って書斎の椽側へ上《あが》って障子の隙《すき》から覗《のぞ》いて見ると、主人はエピクテタスとか云う人の本を披《ひら》いて見ておった。もしそれが平常《いつも》の通閧cDるならちょっとえらいところがある。五六分するとその本を叩《たた》き付けるように机の上へ抛《ほう》り出す。大方そんな事だろうと思いながらなお注意していると、今度は日記帳を出して下《しも》のような事を書きつけた。
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寒月と、根津、上野、池《いけ》の端《はた》、神田|辺《へん》を散歩。池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着《はるぎ》をきて羽根をついていた。衣装《いしょう》は美しいが顔はすこぶるまずい。何となくうちの猫に似ていた。
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 何も顔のまずい例に特に吾輩を出さなくっても、よさそうなものだ。吾輩だって喜多床《きたどこ》へ行って顔さえ剃《す》って貰《もら》やあ、そんなに人間と異《ちが》ったところはありゃしない。人間はこう自惚《うぬぼ》れているから困る。
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宝丹《ほうたん》の角《かど》を曲るとまた一人芸者が来た。これは背《せい》のすらりとした撫肩《なでがた》の恰好《かっこう》よく出来上った女で、着ている薄紫の衣服《きもの》も素直に着こなされて上品に見えた。白い歯を出して笑いながら「源ちゃん昨夕《ゆうべ》は――つい忙がしかったもんだから」と云った。ただしその声は旅鴉《たびがらす》のごとく皺枯《しゃが》れておったので、せっかくの風采《ふうさい》も大《おおい》に下落したように感ぜられたから、いわゆる源ちゃんなるもののいかなる人なるかを振り向いて見るも面倒になって、懐手《ふところで》のまま御成道《おなりみち》へ出た。寒月は何となくそわそわしているごとく見えた。
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 人間の心理ほど解《げ》し難いものはない。この主人の今の心は怒《おこ》っているのだか、浮かれているのだか、または哲人の遺書に一道《いちどう》の慰安を求めつつあるのか、ちっとも分らない。世の中を冷笑しているのか、世の中へ交《まじ》りたいのだか、くだらぬ事に肝癪《かんしゃく》を起しているのか、物外《ぶつがい》に超然《ちょうぜん》としているのだかさっぱり見当《けんとう》が付かぬ。猫などはそこへ行くと単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る、怒《おこ》るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く。第一日記などという無用のものは決してつけない。つける必要がないからである。主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等|猫属《ねこぞく》に至ると行住坐臥《ぎょうじゅうざが》、行屎送尿《こうしそうにょう》ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数《てかず》をして、己《おの》れの真面目《しんめんもく》を保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら椽側に寝ているまでの事さ。
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神田の某亭で晩餐《ばんさん》を食う。久し振りで正宗を二三杯飲んだら、今朝は胃の具合が大変いい。胃弱には晩酌が一番だと思う。タカジヤスターゼは無論いかん。誰が何と云っても駄目だ。どうしたって利《き》かないものは利かないのだ。
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 無暗《むやみ》にタカジヤスターゼを攻撃する。独りで喧嘩をしているようだ。今朝の肝癪がちょっとここへ尾を出す。人間の日記の本色はこう云う辺《へん》に存するのかも知れない。
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せんだって○○は朝飯《あさめし》を廃すると胃がよくなると云うたから二三日《にさんち》朝飯をやめて見たが腹がぐうぐう鳴るばかりで功能はない。△△は是非|香《こう》の物《もの》を断《た》てと忠告した。彼の説によるとすべて胃病の源因は漬物にある。漬物さえ断てば胃病の源を涸《か》らす訳だから本復は疑なしという論法であった。それから一週間ばかり香の物に箸《はし》を触れなかったが別段の験《げん》も見えなかったから近頃はまた食い出した。××に聞くとそれは按腹《あんぷく》揉療治《もみりょうじ》に限る。ただし普通のではゆかぬ。皆川流《みながわりゅう》という古流な揉《も》み方で一二度やらせれば大抵の胃病は根治出来る。安井息軒《やすいそっけん》も大変この按摩術《あんまじゅつ》を愛していた。坂本竜馬《さかもとりょうま》のような豪傑でも時々は治療をうけたと云うから、早速|上根岸《かみねぎし》まで出掛けて揉《も》まして見た。ところが骨を揉《も》まなければ癒《なお》らぬとか、臓腑の位置を一度|顛倒《てんとう》しなければ根治がしにくいとかいって、それはそれは残酷な揉《も》み方をやる。後で身体が綿のようになって昏睡病《こんすいびょう》にかかったような心持ちがしたので、一度で閉口してやめにした。A君は是非固形体を食うなという。それから、一日牛乳ばかり飲んで暮して見たが、この時は腸の中でどぼりどぼりと音がして大水でも出たように思われて終夜眠れなかった。B氏は横膈膜《おうかくまく》で呼吸して内臓を運動させれば自然と胃の働きが健全になる訳だから試しにやって御覧という。これも多少やったが何となく腹中《ふくちゅう》が不安で困る。それに時々思い出したように一心不乱にかかりはするものの五六分立つと忘れてしまう。忘れまいとすると横膈膜が気になって本を読む事も文章をかく事も出来ぬ。美学者の迷亭《めいてい》がこの体《てい》を見て、産気《さんけ》のついた男じゃあるまいし止《よ》すがいいと冷かしたからこの頃は廃《よ》してしまった。C先生は蕎麦《そば》を食ったらよかろうと云うから、早速かけ[#「かけ」に傍点]ともり[#「もり」に傍点]をかわるがわる食ったが、これは腹が下《くだ》るばかりで何等の功能もなかった。余は年来の胃弱を直すために出来得る限りの方法を講じて見たがすべて駄目である。ただ昨夜《ゆうべ》寒月と傾けた三杯の正宗はたしかに利目《ききめ》がある。これからは毎晩二三tずつ飲む事にしよう。
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 これも決して長く続く事はあるまい。主人の心は吾輩の眼球《めだま》のように間断なく変化している。何をやっても永持《ながもち》のしない男である。その上日記の上で胃病をこんなに心配している癖に、表向は大《おおい》に痩我慢をするからおかしい。せんだってその友人で某《なにがし》という学者が尋ねて来て、一種の見地から、すべての病気は父祖の罪悪と自己の罪悪の結果にほかならないと云う議論をした。大分《だいぶ》研究したものと見えて、条理が明晰《めいせき》で秩序が整然として立派な説であった。気の毒ながらうちの主人などは到底これを反駁《はんばく》するほどの頭脳も学問もないのである。しかし自分が胃病で苦しんでいる際《さい》だから、何とかかんとか弁解をして自己の面目を保とうと思った者と見えて、「君の説は面白いが、あのカーライルは胃弱だったぜ」とあたかもカーライルが胃弱だから自分の胃弱も名誉であると云ったような、見当違いの挨拶をした。すると友人は「カーライルが胃弱だって、胃弱の病人が必ずカーライルにはなれないさ」と極《き》め付けたので主人は黙然《もくねん》としていた。かくのごとく虚栄心に富んでいるものの実際はやはり胃弱でない方がいいと見えて、今夜から晩酌を始めるなどというのはちょっと滑稽だ。考えて見ると今朝|雑煮《ぞうに》をあんなにたくさん食ったのも昨夜《ゆうべ》寒月君と正宗をひっくり返した影響かも知れない。吾輩もちょっと雑煮が食って見たくなった。
 吾輩は猫ではあるが大抵のものは食う。車屋の黒のように横丁の肴屋《さかなや》まで遠征をする気力はないし、新道《しんみち》の二絃琴《にげんきん》の師匠の所《とこ》の三毛《みけ》のように贅沢《ぜいたく》は無論云える身分でない。従って存外|嫌《きらい》は少ない方だ。小供の食いこぼした麺麭《パン》も食うし、餅菓子の※[#「食へん+稻のつくり」、第4水準2−92−68]《あん》もなめる。香《こう》の物《もの》はすこぶるまずいが経験のため沢庵《たくあん》を二切ばかりやった事がある。食って見ると妙なもので、大抵のものは食える。あれは嫌《いや》だ、これは嫌だと云うのは贅沢《ぜいたく》な我儘で到底教師の家《うち》にいる猫などの口にすべきところでない。主人の話しによると仏蘭西《フランス》にバルザックという小説家があったそうだ。この男が大の贅沢《ぜいたく》屋で――もっともこれは口の贅沢屋ではない、小説家だけに文章の贅沢を尽したという事である。バルザックが或る日自分の書いている小説中の人間の名をつけようと思っていろいろつけて見たが、どうしても気に入らない。ところへ友人が遊びに来たのでいっしょに散歩に出掛けた。友人は固《もと》より何《なんに》も知らずに連れ出されたのであるが、バルザックは兼《か》ねて自分の苦心している名を目付《めつけ》ようという考えだから往来へ出ると何もしないで店先の看板ばかり見て歩行《ある》いている。ところがやはり気に入った名がない。友人を連れて無暗《むやみ》にあるく。友人は訳がわからずにくっ付いて行く。彼等はついに朝から晩まで巴理《パリ》を探険した。その帰りがけにバルザックはふとある裁縫屋の看板が目についた。見るとその看板にマーカスという名がかいてある。バルザックは手を拍《う》って「これだこれだこれに限る。マーカスは好い名じゃないか。マーカスの上へZという頭文字をつける、すると申し分《ぶん》のない名が出来る。Zでなくてはいかん。Z. Marcus は実にうまい。どうも自分で作った名はうまくつけたつもりでも何となく故意《わざ》とら
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