いいが、それからどうするのだい」と東風君、ことによると、やる了見《りょうけん》と見えて筋を聞きたがる。「ところへ花道から俳人|高浜虚子《たかはまきょし》がステッキを持って、白い灯心《とうしん》入りの帽子を被《かぶ》って、透綾《すきや》の羽織に、薩摩飛白《さつまがすり》の尻端折《しりっぱしょ》りの半靴と云うこしらえで出てくる。着付けは陸軍の御用達《ごようたし》見たようだけれども俳人だからなるべく悠々《ゆうゆう》として腹の中では句案に余念のない体《てい》であるかなくっちゃいけない。それで虚子が花道を行き切っていよいよ本舞台に懸った時、ふと句案の眼をあげて前面を見ると、大きな柳があって、柳の影で白い女が湯を浴びている、はっと思って上を見ると長い柳の枝に烏が一羽とまって女の行水を見下ろしている。そこで虚子先生|大《おおい》に俳味に感動したと云う思い入れが五十秒ばかりあって、行水の女に惚れる烏かな[#「行水の女に惚れる烏かな」に傍点]と大きな声で一句朗吟するのを合図に、拍子木《ひょうしぎ》を入れて幕を引く。――どうだろう、こう云う趣向は。御気に入りませんかね。君|御宮《おみや》になるより虚子になる方がよほどいいぜ」東風君は何だか物足らぬと云う顔付で「あんまり、あっけないようだ。もう少し人情を加味した事件が欲しいようだ」と真面目に答える。今まで比較的おとなしくしていた迷亭はそういつまでもだまっているような男ではない。「たったそれだけで俳劇はすさまじいね。上田敏《うえだびん》君の説によると俳味とか滑稽とか云うものは消極的で亡国の音《いん》だそうだが、敏君だけあってうまい事を云ったよ。そんなつまらない物をやって見給え。それこそ上田君から笑われるばかりだ。第一劇だか茶番だか何だかあまり消極的で分らないじゃないか。失礼だが寒月君はやはり実験室で珠《たま》を磨いてる方がいい。俳劇なんぞ百作ったって二百作ったって、亡国の音《いん》じゃ駄目だ」寒月君は少々|憤《むっ》として、「そんなに消極的でしょうか。私はなかなか積極的なつもりなんですが」どっちでも構わん事を弁解しかける。「虚子がですね。虚子先生が女に惚れる烏かな[#「女に惚れる烏かな」に傍点]と烏を捕《とら》えて女に惚れさしたところが大《おおい》に積極的だろうと思います」「こりゃ新説だね。是非御講釈を伺がいましょう」「理学士として考えて見ると烏が女に惚れるなどと云うのは不合理でしょう」「ごもっとも」「その不合理な事を無雑作《むぞうさ》に言い放って少しも無理に聞えません」「そうかしら」と主人が疑った調子で割り込んだが寒月は一向頓着しない。「なぜ無理に聞えないかと云うと、これは心理的に説明するとよく分ります。実を云うと惚れるとか惚れないとか云うのは俳人その人に存する感情で烏とは没交渉の沙汰であります。しかるところあの烏は惚れてるなと感じるのは、つまり烏がどうのこうのと云う訳じゃない、必竟《ひっきょう》自分が惚れているんでさあ。虚子自身が美しい女の行水《ぎょうずい》しているところを見てはっと思う途端にずっと惚れ込んだに相違ないです。さあ自分が惚れた眼で烏が枝の上で動きもしないで下を見つめているのを見たものだから、ははあ、あいつも俺と同じく参ってるなと癇違《かんちが》いをしたのです。癇違いには相違ないですがそこが文学的でかつ積極的なところなんです。自分だけ感じた事を、断りもなく烏の上に拡張して知らん顔をしてすましているところなんぞは、よほど積極主義じゃありませんか。どうです先生」「なるほど御名論だね、虚子に聞かしたら驚くに違いない。説明だけは積極だが、実際あの劇をやられた日には、見物人はたしかに消極になるよ。ねえ東風君」「へえどうも消極過ぎるように思います」と真面目な顔をして答えた。
主人は少々談話の局面を展開して見たくなったと見えて、「どうです、東風さん、近頃は傑作もありませんか」と聞くと東風君は「いえ、別段これと云って御目にかけるほどのものも出来ませんが、近日詩集を出して見ようと思いまして――稿本《こうほん》を幸い持って参りましたから御批評を願いましょう」と懐から紫の袱紗包《ふくさづつみ》を出して、その中から五六十枚ほどの原稿紙の帳面を取り出して、主人の前に置く。主人はもっともらしい顔をして拝見と云って見ると第一頁に
[#ここから2字下げ]
世の人に似ずあえかに見え給う
富子嬢に捧ぐ
[#ここで字下げ終わり]
と二行にかいてある。主人はちょっと神秘的な顔をしてしばらく一頁を無言のまま眺《なが》めているので、迷亭は横合から「何だい新体詩かね」と云いながら覗《のぞ》き込んで「やあ、捧げたね。東風君、思い切って富子嬢に捧げたのはえらい」としきりに賞《ほ》める。主人はなお不思議そうに「東風さん、この富子と云うのは本当に存在している婦人なのですか」と聞く。「へえ、この前迷亭先生とごいっしょに朗読会へ招待した婦人の一人です。ついこの御近所に住んでおります。実はただ今詩集を見せようと思ってちょっと寄って参りましたが、生憎《あいにく》先月から大磯へ避暑に行って留守でした」と真面目くさって述べる。「苦沙弥君、これが二十世紀なんだよ。そんな顔をしないで、早く傑作でも朗読するさ。しかし東風君この捧げ方は少しまずかったね。このあえかに[#「あえかに」に傍点]と云う雅言《がげん》は全体何と言う意味だと思ってるかね」「蚊弱《かよわ》いとかたよわく[#「たよわく」に傍点]と云う字だと思います」「なるほどそうも取れん事はないが本来の字義を云うと危う気に[#「危う気に」に傍点]と云う事だぜ。だから僕ならこうは書かないね」「どう書いたらもっと詩的になりましょう」「僕ならこうさ。世の人に似ずあえかに見え給う富子嬢の鼻の下[#「鼻の下」に傍点]に捧ぐとするね。わずかに三字のゆきさつだが鼻の下[#「鼻の下」に傍点]があるのとないのとでは大変感じに相違があるよ」「なるほど」と東風君は解《げ》しかねたところを無理に納得《なっとく》した体《てい》にもてなす。
主人は無言のままようやく一頁をはぐっていよいよ巻頭第一章を読み出す。
[#ここから2字下げ]
倦《う》んじて薫《くん》ずる香裏《こうり》に君の
霊か相思の煙のたなびき
おお我、ああ我、辛《から》きこの世に
あまく得てしか熱き口づけ
[#ここで字下げ終わり]
「これは少々僕には解しかねる」と主人は嘆息しながら迷亭に渡す。「これは少々振い過ぎてる」と迷亭は寒月に渡す。寒月は「なああるほど」と云って東風君に返す。
「先生御分りにならんのはごもっともで、十年前の詩界と今日《こんにち》の詩界とは見違えるほど発達しておりますから。この頃の詩は寝転んで読んだり、停車場で読んではとうてい分りようがないので、作った本人ですら質問を受けると返答に窮する事がよくあります。全くインスピレーションで書くので詩人はその他には何等の責任もないのです。註釈や訓義《くんぎ》は学究のやる事で私共の方では頓《とん》と構いません。せんだっても私の友人で送籍《そうせき》と云う男が一夜[#「一夜」に傍点]という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧《もうろう》として取り留《と》めがつかないので、当人に逢って篤《とく》と主意のあるところを糺《ただ》して見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人が云うと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡《たんかん》に送籍君を打ち留めた。東風君はこれだけではまだ弁じ足りない。「送籍は吾々仲間のうちでも取除《とりの》けですが、私の詩もどうか心持ちその気で読んでいただきたいので。ことに御注意を願いたいのはからき[#「からき」に傍点]この世と、あまき[#「あまき」に傍点]口づけと対《つい》をとったところが私の苦心です」「よほど苦心をなすった痕迹《こんせき》が見えます」「あまい[#「あまい」に傍点]とからい[#「からい」に傍点]と反照するところなんか十七味調《じゅうしちみちょう》唐辛子調《とうがらしちょう》で面白い。全く東風君独特の伎倆で敬々服々の至りだ」としきりに正直な人をまぜ返して喜んでいる。
主人は何と思ったか、ふいと立って書斎の方へ行ったがやがて一枚の半紙を持って出てくる。「東風君の御作も拝見したから、今度は僕が短文を読んで諸君の御批評を願おう」といささか本気の沙汰である。「天然居士《てんねんこじ》の墓碑銘《ぼひめい》ならもう二三遍拝聴したよ」「まあ、だまっていなさい。東風さん、これは決して得意のものではありませんが、ほんの座興ですから聴いて下さい」「是非伺がいましょう」「寒月君もついでに聞き給え」「ついででなくても聴きますよ。長い物じゃないでしょう」「僅々六十余字さ」と苦沙弥先生いよいよ手製の名文を読み始める。
「大和魂《やまとだましい》! と叫んで日本人が肺病やみのような咳《せき》をした」
「起し得て突兀《とっこつ》ですね」と寒月君がほめる。
「大和魂! と新聞屋が云う。大和魂! と掏摸《すり》が云う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸《ドイツ》で大和魂の芝居をする」
「なるほどこりゃ天然居士《てんねんこじ》以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。
「東郷大将が大和魂を有《も》っている。肴屋《さかなや》の銀さんも大和魂を有っている。詐偽師《さぎし》、山師《やまし》、人殺しも大和魂を有っている」
「先生そこへ寒月も有っているとつけて下さい」
「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答えて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」
「その一句は大出来だ。君はなかなか文才があるね。それから次の句は」
「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示すごとく魂である。魂であるから常にふらふらしている」
「先生だいぶ面白うございますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と云ったのは無論迷亭である。
「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇《あ》った者がない。大和魂はそれ天狗《てんぐ》の類《たぐい》か」
主人は一結杳然《いっけつようぜん》と云うつもりで読み終ったが、さすがの名文もあまり短か過ぎるのと、主意がどこにあるのか分りかねるので、三人はまだあとがある事と思って待っている。いくら待っていても、うんとも、すんとも、云わないので、最後に寒月が「それぎりですか」と聞くと主人は軽《かろ》く「うん」と答えた。うんは少し気楽過ぎる。
不思議な事に迷亭はこの名文に対して、いつものようにあまり駄弁を振わなかったが、やがて向き直って、「君も短篇を集めて一巻として、そうして誰かに捧げてはどうだ」と聞いた。主人は事もなげに「君に捧げてやろうか」と聴くと迷亭は「真平《まっぴら》だ」と答えたぎり、先刻《さっき》細君に見せびらかした鋏《はさみ》をちょきちょき云わして爪をとっている。寒月君は東風君に向って「君はあの金田の令嬢を知ってるのかい」と尋ねる。「この春朗読会へ招待してから、懇意になってそれからは始終交際をしている。僕はあの令嬢の前へ出ると、何となく一種の感に打たれて、当分のうちは詩を作っても歌を詠《よ》んでも愉快に興が乗って出て来る。この集中にも恋の詩が多いのは全くああ云う異性の朋友《ほうゆう》からインスピレーションを受けるからだろうと思う。それで僕はあの令嬢に対しては切実に感謝の意を表しなければならんからこの機を利用して、わが集を捧げる事にしたのさ。昔《むか》しから婦人に親友のないもので立派な詩をかいたものはないそうだ」「そうかなあ」と寒月君は顔の奥で笑いながら答えた。いくら駄弁家の寄合でもそう長くは続かんものと見えて、談話の火の手は大分《だいぶ》下火になった。吾輩も彼等の変化なき雑談を終日聞かねばならぬ義務もないから、失敬して庭へ蟷螂《かまきり》を探しに出た。梧桐《あおぎり》の緑を綴《
前へ
次へ
全75ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング