れれば先方でも世間へ対して肩身が広い、面目《めんぼく》があると云うんだがね、どうだろう、近々《きんきん》の内水島君は博士論文でも呈出して、博士の学位を受けるような運びには行くまいか。なあに――金田だけなら博士も学士もいらんのさ、ただ世間と云う者があるとね、そう手軽にも行かんからな」
こう云われて見ると、先方で博士を請求するのも、あながち無理でもないように思われて来る。無理ではないように思われて来れば、鈴木君の依頼通りにしてやりたくなる。主人を活《い》かすのも殺すのも鈴木君の意のままである。なるほど主人は単純で正直な男だ。
「それじゃ、今度寒月が来たら、博士論文をかくように僕から勧めて見よう。しかし当人が金田の娘を貰うつもりかどうだか、それからまず問い正《ただ》して見なくちゃいかんからな」
「問い正すなんて、君そんな角張《かどば》った事をして物が纏《まと》まるものじゃない。やっぱり普通の談話の際にそれとなく気を引いて見るのが一番近道だよ」
「気を引いて見る?」
「うん、気を引くと云うと語弊があるかも知れん。――なに気を引かんでもね。話しをしていると自然分るもんだよ」
「君にゃ分るかも知れんが、僕にゃ判然と聞かん事は分らん」
「分らなけりゃ、まあ好いさ。しかし迷亭君見たように余計な茶々を入れて打《ぶ》ち壊《こ》わすのは善くないと思う。仮令《たとい》勧めないまでも、こんな事は本人の随意にすべきはずのものだからね。今度寒月君が来たらなるべくどうか邪魔をしないようにしてくれ給え。――いえ君の事じゃない、あの迷亭君の事さ。あの男の口にかかると到底助かりっこないんだから」と主人の代理に迷亭の悪口をきいていると、噂《うわさ》をすれば陰の喩《たとえ》に洩《も》れず迷亭先生例のごとく勝手口から飄然《ひょうぜん》と春風《しゅんぷう》に乗じて舞い込んで来る。
「いやー珍客だね。僕のような狎客《こうかく》になると苦沙弥《くしゃみ》はとかく粗略にしたがっていかん。何でも苦沙弥のうちへは十年に一遍くらいくるに限る。この菓子はいつもより上等じゃないか」と藤村《ふじむら》の羊羹《ようかん》を無雑作《むぞうさ》に頬張《ほおば》る。鈴木君はもじもじしている。主人はにやにやしている。迷亭は口をもがもがさしている。吾輩はこの瞬時の光景を椽側《えんがわ》から拝見して無言劇と云うものは優に成立し得ると思った。禅家《ぜんけ》で無言の問答をやるのが以心伝心であるなら、この無言の芝居も明かに以心伝心の幕である。すこぶる短かいけれどもすこぶる鋭どい幕である。
「君は一生|旅烏《たびがらす》かと思ってたら、いつの間《ま》にか舞い戻ったね。長生《ながいき》はしたいもんだな。どんな僥倖《ぎょうこう》に廻《めぐ》り合わんとも限らんからね」と迷亭は鈴木君に対しても主人に対するごとく毫《ごう》も遠慮と云う事を知らぬ。いかに自炊の仲間でも十年も逢わなければ、何となく気のおけるものだが迷亭君に限って、そんな素振《そぶり》も見えぬのは、えらいのだか馬鹿なのかちょっと見当がつかぬ。
「可哀そうに、そんなに馬鹿にしたものでもない」と鈴木君は当らず障《さわ》らずの返事はしたが、何となく落ちつきかねて、例の金鎖を神経的にいじっている。
「君電気鉄道へ乗ったか」と主人は突然鈴木君に対して奇問を発する。
「今日は諸君からひやかされに来たようなものだ。なんぼ田舎者だって――これでも街鉄《がいてつ》を六十株持ってるよ」
「そりゃ馬鹿に出来ないな。僕は八百八十八株半持っていたが、惜しい事に大方《おおかた》虫が喰ってしまって、今じゃ半株ばかりしかない。もう少し早く君が東京へ出てくれば、虫の喰わないところを十株ばかりやるところだったが惜しい事をした」
「相変らず口が悪るい。しかし冗談は冗談として、ああ云う株は持ってて損はないよ、年々《ねんねん》高くなるばかりだから」
「そうだ仮令《たとい》半株だって千年も持ってるうちにゃ倉が三つくらい建つからな。君も僕もその辺にぬかりはない当世の才子だが、そこへ行くと苦沙弥などは憐れなものだ。株と云えば大根の兄弟分くらいに考えているんだから」とまた羊羹《ようかん》をつまんで主人の方を見ると、主人も迷亭の食《く》い気《け》が伝染して自《おの》ずから菓子皿の方へ手が出る。世の中では万事積極的のものが人から真似らるる権利を有している。
「株などはどうでも構わんが、僕は曾呂崎《そろさき》に一度でいいから電車へ乗らしてやりたかった」と主人は喰い欠けた羊羹の歯痕《はあと》を撫然《ぶぜん》として眺める。
「曾呂崎が電車へ乗ったら、乗るたんびに品川まで行ってしまうは、それよりやっぱり天然居士《てんねんこじ》で沢庵石《たくあんいし》へ彫《ほ》り付けられてる方が無事でいい」
「曾呂崎と云えば死んだそうだな。気の毒だねえ、いい頭の男だったが惜しい事をした」と鈴木君が云うと、迷亭は直《ただ》ちに引き受けて
「頭は善かったが、飯を焚《た》く事は一番下手だったぜ。曾呂崎の当番の時には、僕あいつでも外出をして蕎麦《そば》で凌《しの》いでいた」
「ほんとに曾呂崎の焚いた飯は焦《こ》げくさくって心《しん》があって僕も弱った。御負けに御菜《おかず》に必ず豆腐をなまで食わせるんだから、冷たくて食われやせん」と鈴木君も十年前の不平を記憶の底から喚《よ》び起す。
「苦沙弥はあの時代から曾呂崎の親友で毎晩いっしょに汁粉《しるこ》を食いに出たが、その祟《たた》りで今じゃ慢性胃弱になって苦しんでいるんだ。実を云うと苦沙弥の方が汁粉の数を余計食ってるから曾呂崎[#「曾呂崎」は底本では「曾兄崎」]より先へ死んで宜《い》い訳なんだ」
「そんな論理がどこの国にあるものか。俺の汁粉より君は運動と号して、毎晩|竹刀《しない》を持って裏の卵塔婆《らんとうば》へ出て、石塔を叩《たた》いてるところを坊主に見つかって剣突《けんつく》を食ったじゃないか」と主人も負けぬ気になって迷亭の旧悪を曝《あば》く。
「アハハハそうそう坊主が仏様の頭を叩いては安眠の妨害になるからよしてくれって言ったっけ。しかし僕のは竹刀だが、この鈴木将軍のは手暴《てあら》だぜ。石塔と相撲をとって大小三個ばかり転がしてしまったんだから」
「あの時の坊主の怒り方は実に烈しかった。是非元のように起せと云うから人足を傭《やと》うまで待ってくれと云ったら人足じゃいかん懺悔《ざんげ》の意を表するためにあなたが自身で起さなくては仏の意に背《そむ》くと云うんだからね」
「その時の君の風采《ふうさい》はなかったぜ、金巾《かなきん》のしゃつに越中褌《えっちゅうふんどし》で雨上りの水溜りの中でうんうん唸《うな》って……」
「それを君がすました顔で写生するんだから苛《ひど》い。僕はあまり腹を立てた事のない男だが、あの時ばかりは失敬だと心《しん》から思ったよ。あの時の君の言草をまだ覚えているが君は知ってるか」
「十年前の言草なんか誰が覚えているものか、しかしあの石塔に帰泉院殿《きせんいんでん》黄鶴大居士《こうかくだいこじ》安永五年|辰《たつ》正月と彫《ほ》ってあったのだけはいまだに記憶している。あの石塔は古雅に出来ていたよ。引き越す時に盗んで行きたかったくらいだ。実に美学上の原理に叶《かな》って、ゴシック趣味な石塔だった」と迷亭はまた好い加減な美学を振り廻す。
「そりゃいいが、君の言草がさ。こうだぜ――吾輩は美学を専攻するつもりだから天地間《てんちかん》の面白い出来事はなるべく写生しておいて将来の参考に供さなければならん、気の毒だの、可哀相《かわいそう》だのと云う私情は学問に忠実なる吾輩ごときものの口にすべきところでないと平気で云うのだろう。僕もあんまりな不人情な男だと思ったから泥だらけの手で君の写生帖を引き裂いてしまった」
「僕の有望な画才が頓挫《とんざ》して一向《いっこう》振わなくなったのも全くあの時からだ。君に機鋒《きほう》を折られたのだね。僕は君に恨《うらみ》がある」
「馬鹿にしちゃいけない。こっちが恨めしいくらいだ」
「迷亭はあの時分から法螺吹《ほらふき》だったな」と主人は羊羹《ようかん》を食い了《おわ》って再び二人の話の中に割り込んで来る。
「約束なんか履行《りこう》した事がない。それで詰問を受けると決して詫《わ》びた事がない何とか蚊《か》とか云う。あの寺の境内に百日紅《さるすべり》が咲いていた時分、この百日紅が散るまでに美学原論と云う著述をすると云うから、駄目だ、到底出来る気遣《きづかい》はないと云ったのさ。すると迷亭の答えに僕はこう見えても見掛けに寄らぬ意志の強い男である、そんなに疑うなら賭《かけ》をしようと云うから僕は真面目に受けて何でも神田の西洋料理を奢《おご》りっこかなにかに極《き》めた。きっと書物なんか書く気遣はないと思ったから賭をしたようなものの内心は少々恐ろしかった。僕に西洋料理なんか奢る金はないんだからな。ところが先生|一向《いっこう》稿を起す景色《けしき》がない。七日《なぬか》立っても二十日《はつか》立っても一枚も書かない。いよいよ百日紅が散って一輪の花もなくなっても当人平気でいるから、いよいよ西洋料理に有りついたなと思って契約履行を逼《せま》ると迷亭すまして取り合わない」
「また何とか理窟《りくつ》をつけたのかね」と鈴木君が相の手を入れる。
「うん、実にずうずうしい男だ。吾輩はほかに能はないが意志だけは決して君方に負けはせんと剛情を張るのさ」
「一枚も書かんのにか」と今度は迷亭君自身が質問をする。
「無論さ、その時君はこう云ったぜ。吾輩は意志の一点においてはあえて何人《なんぴと》にも一歩も譲らん。しかし残念な事には記憶が人一倍無い。美学原論を著わそうとする意志は充分あったのだがその意志を君に発表した翌日から忘れてしまった。それだから百日紅の散るまでに著書が出来なかったのは記憶の罪で意志の罪ではない。意志の罪でない以上は西洋料理などを奢る理由がないと威張っているのさ」
「なるほど迷亭君一流の特色を発揮して面白い」と鈴木君はなぜだか面白がっている。迷亭のおらぬ時の語気とはよほど違っている。これが利口な人の特色かも知れない。
「何が面白いものか」と主人は今でも怒《おこ》っている様子である。
「それは御気の毒様、それだからその埋合《うめあわ》せをするために孔雀《くじゃく》の舌なんかを金と太鼓で探しているじゃないか。まあそう怒《おこ》らずに待っているさ。しかし著書と云えば君、今日は一大珍報を齎《もた》らして来たんだよ」
「君はくるたびに珍報を齎らす男だから油断が出来ん」
「ところが今日の珍報は真の珍報さ。正札付一厘も引けなしの珍報さ。君寒月が博士論文の稿を起したのを知っているか。寒月はあんな妙に見識張った男だから博士論文なんて無趣味な労力はやるまいと思ったら、あれでやっぱり色気があるからおかしいじゃないか。君あの鼻に是非通知してやるがいい、この頃は団栗博士《どんぐりはかせ》の夢でも見ているかも知れない」
鈴木君は寒月の名を聞いて、話してはいけぬ話してはいけぬと顋《あご》と眼で主人に合図する。主人には一向《いっこう》意味が通じない。さっき鈴木君に逢って説法を受けた時は金田の娘の事ばかりが気の毒になったが、今迷亭から鼻々と云われるとまた先日喧嘩をした事を思い出す。思い出すと滑稽でもあり、また少々は悪《にく》らしくもなる。しかし寒月が博士論文を草しかけたのは何よりの御見《おみ》やげで、こればかりは迷亭先生自賛のごとくまずまず近来の珍報である。啻《ただ》に珍報のみならず、嬉しい快よい珍報である。金田の娘を貰おうが貰うまいがそんな事はまずどうでもよい。とにかく寒月の博士になるのは結構である。自分のように出来損いの木像は仏師屋の隅で虫が喰うまで白木《しらき》のまま燻《くすぶ》っていても遺憾《いかん》はないが、これは旨《うま》く仕上がったと思う彫刻には一日も早く箔《はく》を塗ってやりたい。
「本当に論文を書きかけたのか」と鈴木君の合図はそっち除《の》けにして、熱心に聞く。
「よ
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