く》を食わせる。「ちょっと用があるから嬢《じょう》を呼んで来いとおっしゃいました」「うるさいね、知らないてば」と令嬢は第二の剣突を食わせる。「……水島寒月さんの事で御用があるんだそうでございます」と小間使は気を利《き》かして機嫌を直そうとする。「寒月でも、水月でも知らないんだよ――大嫌いだわ、糸瓜《へちま》が戸迷《とまど》いをしたような顔をして」第三の剣突は、憐れなる寒月君が、留守中に頂戴する。「おや御前いつ束髪《そくはつ》に結《い》ったの」小間使はほっと一息ついて「今日《こんにち》」となるべく単簡《たんかん》な挨拶をする。「生意気だねえ、小間使の癖に」と第四の剣突を別方面から食わす。「そうして新しい半襟《はんえり》を掛けたじゃないか」「へえ、せんだって御嬢様からいただきましたので、結構過ぎて勿体《もったい》ないと思って行李《こうり》の中へしまっておきましたが、今までのがあまり汚《よご》れましたからかけ易《か》えました」「いつ、そんなものを上げた事があるの」「この御正月、白木屋へいらっしゃいまして、御求め遊ばしたので――鶯茶《うぐいすちゃ》へ相撲《すもう》の番附《ばんづけ》を染め出したのでございます。妾《あた》しには地味過ぎていやだから御前に上げようとおっしゃった、あれでございます」「あらいやだ。善く似合うのね。にくらしいわ」「恐れ入ります」「褒《ほ》めたんじゃない。にくらしいんだよ」「へえ」「そんなによく似合うものをなぜだまって貰ったんだい」「へえ」「御前にさえ、そのくらい似合うなら、妾《あた》しにだっておかしい事あないだろうじゃないか」「きっとよく御似合い遊ばします」「似あうのが分ってる癖になぜ黙っているんだい。そうしてすまして掛けているんだよ、人の悪い」剣突《けんつく》は留めどもなく連発される。このさき、事局はどう発展するかと謹聴している時、向うの座敷で「富子や、富子や」と大きな声で金田君が令嬢を呼ぶ。令嬢はやむを得ず「はい」と電話室を出て行く。吾輩より少し大きな狆《ちん》が顔の中心に眼と口を引き集めたような面《かお》をして付いて行く。吾輩は例の忍び足で再び勝手から往来へ出て、急いで主人の家に帰る。T険はまず十二分の成績《せいせき》である。
帰って見ると、奇麗な家《うち》から急に汚ない所へ移ったので、何だか日当りの善い山の上から薄黒い洞窟《どうくつ》の中へ入《はい》り込んだような心持ちがする。探険中は、ほかの事に気を奪われて部屋の装飾、襖《ふすま》、障子《しょうじ》の具合などには眼も留らなかったが、わが住居《すまい》の下等なるを感ずると同時に彼《か》のいわゆる月並《つきなみ》が恋しくなる。教師よりもやはり実業家がえらいように思われる。吾輩も少し変だと思って、例の尻尾《しっぽ》に伺いを立てて見たら、その通りその通りと尻尾の先から御託宣《ごたくせん》があった。座敷へ這入《はい》って見ると驚いたのは迷亭先生まだ帰らない、巻煙草《まきたばこ》の吸い殻を蜂の巣のごとく火鉢の中へ突き立てて、大胡坐《おおあぐら》で何か話し立てている。いつの間《ま》にか寒月君さえ来ている。主人は手枕をして天井の雨洩《あまもり》を余念もなく眺めている。あいかわらず太平の逸民の会合である。
「寒月君、君の事を譫語《うわごと》にまで言った婦人の名は、当時秘密であったようだが、もう話しても善かろう」と迷亭がからかい出す。「御話しをしても、私だけに関する事なら差支《さしつか》えないんですが、先方の迷惑になる事ですから」「まだ駄目かなあ」「それに○○博士夫人に約束をしてしまったもんですから」「他言をしないと云う約束かね」「ええ」と寒月君は例のごとく羽織の紐《ひも》をひねくる。その紐は売品にあるまじき紫色である。「その紐の色は、ちと天保調《てんぽうちょう》だな」と主人が寝ながら云う。主人は金田事件などには無頓着である。「そうさ、到底《とうてい》日露戦争時代のものではないな。陣笠《じんがさ》に立葵《たちあおい》の紋の付いたぶっ割《さ》き羽織でも着なくっちゃ納まりの付かない紐だ。織田信長が聟入《むこいり》をするとき頭の髪を茶筌《ちゃせん》に結《い》ったと云うがその節用いたのは、たしかそんな紐だよ」と迷亭の文句はあいかわらず長い。「実際これは爺《じじい》が長州征伐の時に用いたのです」と寒月君は真面目である。「もういい加減に博物館へでも献納してはどうだ。首縊りの力学[#「首縊りの力学」に傍点]の演者、理学士水島寒月君ともあろうものが、売れ残りの旗本のような出《い》で立《たち》をするのはちと体面に関する訳だから」「御忠告の通りに致してもいいのですが、この紐が大変よく似合うと云ってくれる人もありますので――」「誰だい、そんな趣味のない事を云うのは」と主人は寝返りを打ちながら大きな声を出す。「それは御存じの方なんじゃないんで――」「御存じでなくてもいいや、一体誰だい」「去る女性《にょしょう》なんです」「ハハハハハよほど茶人だなあ、当てて見ようか、やはり隅田川の底から君の名を呼んだ女なんだろう、その羽織を着てもう一返|御駄仏《おだぶつ》を極《き》め込んじゃどうだい」と迷亭が横合から飛び出す。「へへへへへもう水底から呼んではおりません。ここから乾《いぬい》の方角にあたる清浄《しょうじょう》な世界で……」「あんまり清浄でもなさそうだ、毒々しい鼻だぜ」「へえ?」と寒月は不審な顔をする。「向う横丁の鼻がさっき押しかけて来たんだよ、ここへ、実に僕等二人は驚いたよ、ねえ苦沙弥君」「うむ」と主人は寝ながら茶を飲む。「鼻って誰の事です」「君の親愛なる久遠《くおん》の女性《にょしょう》の御母堂様だ」「へえー」「金田の妻《さい》という女が君の魔?キきに来たよ」と主人が真面目に説明してやる。驚くか、嬉しがるか、恥ずかしがるかと寒月君の様子を窺《うかが》って見ると別段の事もない。例の通り静かな調子で「どうか私に、あの娘を貰ってくれと云う依頼なんでしょう」と、また紫の紐をひねくる。「ところが大違さ。その御母堂なるものが偉大なる鼻の所有|主《ぬし》でね……」迷亭が半《なか》ば言い懸けると、主人が「おい君、僕はさっきから、あの鼻について俳体詩《はいたいし》を考えているんだがね」と木に竹を接《つ》いだような事を云う。隣の室《へや》で妻君がくすくす笑い出す。「随分君も呑気《のんき》だなあ出来たのかい」「少し出来た。第一句がこの顔に鼻祭り[#「この顔に鼻祭り」に傍点]と云うのだ」「それから?」「次がこの鼻に神酒供え[#「この鼻に神酒供え」に傍点]というのさ」「次の句は?」「まだそれぎりしか出来ておらん」「面白いですな」と寒月君がにやにや笑う。「次へ穴二つ幽かなり[#「穴二つ幽かなり」に傍点]と付けちゃどうだ」と迷亭はすぐ出来る。すると寒月が「奥深く毛も見えず[#「奥深く毛も見えず」に傍点]はいけますまいか」と各々《おのおの》出鱈目《でたらめ》を並べていると、垣根に近く、往来で「今戸焼《いまどやき》の狸《たぬき》今戸焼の狸」と四五人わいわい云う声がする。主人も迷亭もちょっと驚ろいて表の方を、垣の隙《すき》からすかして見ると「ワハハハハハ」と笑う声がして遠くへ散る足の音がする。「今戸焼の狸というな何だい」と迷亭が不思議そうに主人に聞く。「何だか分らん」と主人が答える。「なかなか振《ふる》っていますな」と寒月君が批評を加える。迷亭は何を思い出したか急に立ち上って「吾輩は年来美学上の見地からこの鼻について研究した事がございますから、その一斑《いっぱん》を披瀝《ひれき》して、御両君の清聴を煩《わずら》わしたいと思います」と演舌の真似をやる。主人はあまりの突然にぼんやりして無言のまま迷亭を見ている。寒月は「是非|承《うけたまわ》りたいものです」と小声で云う。「いろいろ調べて見ましたが鼻の起源はどうも確《しか》と分りません。第一の不審は、もしこれを実用上の道具と仮定すれば穴が二つでたくさんである。何もこんなに横風《おうふう》に真中から突き出して見る必用がないのである。ところがどうしてだんだん御覧のごとく斯様《かよう》にせり出して参ったか」と自分の鼻を抓《つま》んで見せる。「あんまりせり出してもおらんじゃないか」と主人は御世辞のないところを云う。「とにかく引っ込んではおりませんからな。ただ二個の孔《あな》が併《なら》んでいる状体と混同なすっては、誤解を生ずるに至るかも計られませんから、予《あらかじ》め御注意をしておきます。――で愚見によりますと鼻の発達は吾々人間が鼻汁《はな》をかむと申す微細なる行為の結果が自然と蓄積してかく著明なる現象を呈出したものでございます」「佯《いつわ》りのない愚見だ」とまた主人が寸評を挿入《そうにゅう》する。「御承知の通り鼻汁《はな》をかむ時は、是非鼻を抓みます、鼻を抓んで、ことにこの局部だけに刺激を与えますと、進化論の大原則によって、この局部はこの刺激に応ずるがため他に比例して不相当な発達を致します。皮も自然堅くなります、肉も次第に硬《かた》くなります。ついに凝《こ》って骨となります」「それは少し――そう自由に肉が骨に一足飛に変化は出来ますまい」と理学士だけあって寒月君が抗議を申し込む。迷亭は何喰わぬ顔で陳《の》べ続ける。「いや御不審はごもっともですが論より証拠この通り骨があるから仕方がありません。すでに骨が出来る。骨は出来ても鼻汁《はな》は出ますな。出ればかまずにはいられません。この作用で骨の左右が削《けず》り取られて細い高い隆起と変化して参ります――実に恐ろしい作用です。点滴《てんてき》の石を穿《うが》つがごとく、賓頭顱《びんずる》の頭が自《おのず》から光明を放つがごとく、不思議薫《ふしぎくん》不思議臭《ふしぎしゅう》の喩《たとえ》のごとく、斯様《かよう》に鼻筋が通って堅くなります。「それでも君のなんぞ、ぶくぶくだぜ」「演者自身の局部は回護《かいご》の恐れがありますから、わざと論じません。かの金田の御母堂の持たせらるる鼻のごときは、もっとも発達せるもっとも偉大なる天下の珍品として御両君に紹介しておきたいと思います」寒月君は思わずヒヤヤヤと云う。「しかし物も極度に達しますと偉観には相違ございませんが何となく怖《おそろ》しくて近づき難いものであります。あの鼻梁《びりょう》などは素晴しいには違いございませんが、少々|峻嶮《しゅんけん》過ぎるかと思われます。古人のうちにてもソクラチス、ゴールドスミスもしくはサッカレーの鼻などは構造の上から云うと随分申し分はございましょうがその申し分のあるところに愛嬌《あいきょう》がございます。鼻高きが故に貴《たっと》からず、奇《きtなるがために貴しとはこの故でもございましょうか。下世話《げせわ》にも鼻より団子と申しますれば美的価値から申しますとまず迷亭くらいのところが適当かと存じます」寒月と主人は「フフフフ」と笑い出す。迷亭自身も愉快そうに笑う。「さてただ今《いま》まで弁じましたのは――」「先生弁じました[#「弁じました」に傍点]は少し講釈師のようで下品ですから、よしていただきましょう」と寒月君は先日の復讐《ふくしゅう》をやる。「さようしからば顔を洗って出直しましょうかな。――ええ――これから鼻と顔の権衡《けんこう》に一言《いちごん》論及したいと思います。他に関係なく単独に鼻論をやりますと、かの御母堂などはどこへ出しても恥ずかしからぬ鼻――鞍馬山《くらまやま》で展覧会があっても恐らく一等賞だろうと思われるくらいな鼻を所有していらせられますが、悲しいかなあれは眼、口、その他の諸先生と何等の相談もなく出来上った鼻であります。ジュリアス・シーザーの鼻は大したものに相違ございません。しかしシーザーの鼻を鋏《はさみ》でちょん切って、当家の猫の顔へ安置したらどんな者でございましょうか。喩《たと》えにも猫の額《ひたい》と云うくらいな地面へ、英雄の鼻柱が突兀《とっこつ》として聳《そび》えたら、碁盤の上へ奈良の大仏を据《す》え付けたようなもので、少しく比例を失するの極、その
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