かね。ちっと文芸倶楽部でも読んだらよさそうなものですがねえ」と寒月君さんざんにやられる。迷亭は面白半分に「こりゃどうです」と三枚目を出す。今度は活版で帆懸舟《ほかけぶね》が印刷してあって、例のごとくその下に何か書き散らしてある。「よべの泊《とま》りの十六小女郎《じゅうろくこじょろ》、親がないとて、荒磯《ありそ》の千鳥、さよの寝覚《ねざめ》の千鳥に泣いた、親は船乗り波の底」「うまいのねえ、感心だ事、話せるじゃありませんか」「話せますかな」「ええこれなら三味線に乗りますよ」「三味線に乗りゃ本物だ。こりゃ如何《いかが》です」と迷亭は無暗《むやみ》に出す。「いえ、もうこれだけ拝見すれば、ほかのは沢山で、そんなに野暮《やぼ》でないんだと云う事は分りましたから」と一人で合点している。鼻子はこれで寒月に関する大抵の質問を卒《お》えたものと見えて、「これははなはだ失礼を致しました。どうか私の参った事は寒月さんへは内々に願います」と得手勝手《えてかって》な要求をする。寒月の事は何でも聞かなければならないが、自分の方の事は一切寒月へ知らしてはならないと云う方針と見える。迷亭も主人も「はあ」と気のない返事をすると「いずれその内御礼は致しますから」と念を入れて言いながら立つ。見送りに出た両人《ふたり》が席へ返るや否や迷亭が「ありゃ何だい」と云うと主人も「ありゃ何だい」と双方から同じ問をかける。奥の部屋で細君が怺《こら》え切れなかったと見えてクツクツ笑う声が聞える。迷亭は大きな声を出して「奥さん奥さん、月並の標本が来ましたぜ。月並もあのくらいになるとなかなか振《ふる》っていますなあ。さあ遠慮はいらんから、存分御笑いなさい」
 主人は不満な口気《こうき》で「第一気に喰わん顔だ」と悪《にく》らしそうに云うと、迷亭はすぐ引きうけて「鼻が顔の中央に陣取って乙《おつ》に構えているなあ」とあとを付ける。「しかも曲っていらあ」「少し猫背《ねこぜ》だね。猫背の鼻は、ちと奇抜《きばつ》過ぎる」と面白そうに笑う。「夫《おっと》を剋《こく》する顔だ」と主人はなお口惜《くや》しそうである。「十九世紀で売れ残って、二十世紀で店曝《たなざら》しに逢うと云う相《そう》だ」と迷亭は妙な事ばかり云う。ところへ妻君が奥の間《ま》から出て来て、女だけに「あんまり悪口をおっしゃると、また車屋の神《かみ》さんにいつけ[#「いつけ」に傍点]られますよ」と注意する。「少しいつけ[#「いつけ」に傍点]る方が薬ですよ、奥さん」「しかし顔の讒訴《ざんそ》などをなさるのは、あまり下等ですわ、誰だって好んであんな鼻を持ってる訳でもありませんから――それに相手が婦人ですからね、あんまり苛《ひど》いわ」と鼻子の鼻を弁護すると、同時に自分の容貌《ようぼう》も間接に弁護しておく。「何ひどいものか、あんなのは婦人じゃない、愚人だ、ねえ迷亭君」「愚人かも知れんが、なかなかえら者だ、大分《だいぶ》引き掻《か》かれたじゃないか」「全体教師を何と心得ているんだろう」「裏の車屋くらいに心得ているのさ。ああ云う人物に尊敬されるには博士になるに限るよ、一体博士になっておかんのが君の不了見《ふりょうけん》さ、ねえ奥さん、そうでしょう」と迷亭は笑いながら細君を顧《かえり》みる。「博士なんて到底駄目ですよ」と主人は細君にまで見離される。「これでも今になるかも知れん、軽蔑《けいべつ》するな。貴様なぞは知るまいが昔《むか》しアイソクラチスと云う人は九十四歳で大著述をした。ソフォクリスが傑作を出して天下を驚かしたのは、ほとんど百歳の高齢だった。シモニジスは八十で妙詩を作った。おれだって……」「馬鹿馬鹿しいわ、あなたのような胃病でそんなに永く生きられるものですか」と細君はちゃんと主人の寿命を予算している。「失敬な、――甘木さんへ行って聞いて見ろ――元来御前がこんな皺苦茶《しわくちゃ》な黒木綿《くろもめん》の羽織や、つぎだらけの着物を着せておくから、あんな女に馬鹿にされるんだ。あしたから迷亭の着ているような奴を着るから出しておけ」「出しておけって、あんな立派な御召《おめし》はござんせんわ。金田の奥さんが迷亭さんに叮嚀になったフは、伯父さんの名前を聞いてからですよ。着物の咎《とが》じゃございません」と細君うまく責任を逃《の》がれる。
 主人は伯父さん[#「伯父さん」に傍点]と云う言葉を聞いて急に思い出したように「君に伯父があると云う事は、今日始めて聞いた。今までついに噂《うわさ》をした事がないじゃないか、本当にあるのかい」と迷亭に聞く。迷亭は待ってたと云わぬばかりに「うんその伯父さ、その伯父が馬鹿に頑物《がんぶつ》でねえ――やはりその十九世紀から連綿と今日《こんにち》まで生き延びているんだがね」と主人夫婦を半々に見る。「オホホホホホ面白い事ばかりおっしゃって、どこに生きていらっしゃるんです」「静岡に生きてますがね、それがただ生きてるんじゃ無いです。頭にちょん髷《まげ》を頂いて生きてるんだから恐縮しまさあ。帽子を被《かぶ》れってえと、おれはこの年になるが、まだ帽子を被るほど寒さを感じた事はないと威張ってるんです――寒いから、もっと寝《ね》ていらっしゃいと云うと、人間は四時間寝れば充分だ。四時間以上寝るのは贅沢《ぜいたく》の沙汰だって朝暗いうちから起きてくるんです。それでね、おれも睡眠時間を四時間に縮めるには、永年修業をしたもんだ、若いうちはどうしても眠《ねむ》たくていかなんだが、近頃に至って始めて随処任意の庶境《しょきょう》に入《い》ってはなはだ嬉しいと自慢するんです。六十七になって寝られなくなるなあ当り前でさあ。修業も糸瓜《へちま》も入《い》ったものじゃないのに当人は全く克己《こっき》の力で成功したと思ってるんですからね。それで外出する時には、きっと鉄扇《てっせん》をもって出るんですがね」「なににするんだい」「何にするんだか分らない、ただ持って出るんだね。まあステッキの代りくらいに考えてるかも知れんよ。ところがせんだって妙な事がありましてね」と今度は細君の方へ話しかける。「へえー」と細君が差《さ》し合《あい》のない返事をする。「此年《ことし》の春突然手紙を寄こして山高帽子とフロックコートを至急送れと云うんです。ちょっと驚ろいたから、郵便で問い返したところが老人自身が着ると云う返事が来ました。二十三日に静岡で祝捷会《しゅくしょうかい》があるからそれまでに間《ま》に合うように、至急調達しろと云う命令なんです。ところがおかしいのは命令中にこうあるんです。帽子は好い加減な大きさのを買ってくれ、洋服も寸法を見計らって大丸《だいまる》へ注文してくれ……」「近頃は大丸でも洋服を仕立てるのかい」「なあに、先生、白木屋《しろきや》と間違えたんだあね」「寸法をゥ計ってくれたって無理じゃないか」「そこが伯父の伯父たるところさ」「どうした?」「仕方がないから見計らって送ってやった」「君も乱暴だな。それで間に合ったのかい」「まあ、どうにか、こうにかおっついたんだろう。国の新聞を見たら、当日牧山翁は珍らしくフロックコートにて、例の鉄扇《てっせん》を持ち……」「鉄扇だけは離さなかったと見えるね」「うん死んだら棺の中へ鉄扇だけは入れてやろうと思っているよ」「それでも帽子も洋服も、うまい具合に着られて善かった」「ところが大間違さ。僕も無事に行ってありがたいと思ってると、しばらくして国から小包が届いたから、何か礼でもくれた事と思って開けて見たら例の山高帽子さ、手紙が添えてあってね、せっかく御求め被下候《くだされそうら》えども少々大きく候間《そろあいだ》、帽子屋へ御遣《おつか》わしの上、御縮め被下度候《くだされたくそろ》。縮め賃は小為替《こがわせ》にて此方《こなた》より御送《おんおくり》可申上候《もうしあぐべきそろ》とあるのさ」「なるほど迂濶《うかつ》だな」と主人は己《おの》れより迂濶なものの天下にある事を発見して大《おおい》に満足の体《てい》に見える。やがて「それから、どうした」と聞く。「どうするったって仕方がないから僕が頂戴して被《かぶ》っていらあ」「あの帽子かあ」と主人がにやにや笑う。「その方《かた》が男爵でいらっしゃるんですか」と細君が不思議そうに尋ねる。「誰がです」「その鉄扇の伯父さまが」「なあに漢学者でさあ、若い時|聖堂《せいどう》で朱子学《しゅしがく》か、何かにこり固まったものだから、電気灯の下で恭《うやうや》しくちょん[#「ちょん」に傍点]髷《まげ》を頂いているんです。仕方がありません」とやたらに顋《あご》を撫《な》で廻す。「それでも君は、さっきの女に牧山男爵と云ったようだぜ」「そうおっしゃいましたよ、私も茶の間で聞いておりました」と細君もこれだけは主人の意見に同意する。「そうでしたかなアハハハハハ」と迷亭は訳《わけ》もなく笑う。「そりゃ嘘《うそ》ですよ。僕に男爵の伯父がありゃ、今頃は局長くらいになっていまさあ」と平気なものである。「何だか変だと思った」と主人は嬉しそうな、心配そうな顔付をする。「あらまあ、よく真面目であんな嘘が付けますねえ。あなたもよっぽど法螺《ほら》が御上手でいらっしゃる事」と細君は非常に感心する。「僕より、あの女の方が上《う》わ手《て》でさあ」「あなただって御負けなさる気遣《きづか》いはありません」「しかし奥さん、僕の法螺は単なる法螺ですよ。あの女のは、みんな魂胆があって、曰《いわ》く付きの嘘ですぜ。たちが悪いです。猿智慧《さるぢえ》から割り出した術数と、天来の滑稽趣味と混同されちゃ、コメディーの神様も活眼の士なきを嘆ぜざるを得ざる訳に立ち至りますからな」主人は俯目《ふしめ》になって「どうだか」と云う。妻君は笑いながら「同じ事ですわ」と云う。
 吾輩は今まで向う横丁へ足を踏み込んだ事はない。角屋敷《かどやしき》の金田とは、どんな構えか見た事は無論ない。聞いた事さえ今が始めてである。主人の家《うち》で実業家が話頭に上《のぼ》った事は一返もないので、主人の飯を食う吾輩までがこの方面には単に無関係なるのみならず、はなはだ冷淡であった。しかるに先刻|図《はか》らずも鼻子の訪問を受けて、余所《よそ》ながらその談話を拝聴し、その令嬢の艶美《えんび》を想像し、またその富貴《ふうき》、権勢を思い浮べて見ると、猫ながら安閑として椽側《えんがわ》に寝転んでいられなくなった。しかのみならず吾輩は寒月君に対してはなはだ同情の至りに堪えん。先方では博士の奥さんやら、車屋の神《かみ》さんやら、二絃琴《にげんきん》の天璋院《てんしょういん》まで買収して知らぬ間《ま》に、前歯の欠けたのさえ探偵しているのに、寒月君の方ではただニヤニヤして羽織の紐ばかり気にしているのは、いかに卒業したての理学士にせよ、あまり能がなさ過ぎる。と言って、ああ云う偉大な鼻を顔の中《うち》に安置している女の事だから、滅多《めった》な者では寄り付ける訳の者ではない。こう云う事件に関しては主人はむしろ無頓着でかつあまりに銭《ぜに》がなさ過ぎる。迷亭は銭に不自由はしないが、あんな偶然童子だから、寒月に援《たす》けを与える便宜《べんぎ》は尠《すくな》かろう。して見ると可哀相《かわいそう》なのは首縊りの力学[#「首縊りの力学」に傍点]を演説する先生ばかりとなる。吾輩でも奮発して、敵城へ乗り込んでその動静を偵察してやらなくては、あまり不公平である。吾輩は猫だけれど、エピクテタスを読んで机の上へ叩きつけるくらいな学者の家《うち》に寄寓《きぐう》する猫で、世間一般の痴猫《ちびょう》、愚猫《ぐびょう》とは少しく撰《せん》を殊《こと》にしている。この冒険をあえてするくらいの義侠心は固《もと》より尻尾《しっぽ》の先に畳み込んである。何も寒月君に恩になったと云う訳もないが、これはただに個人のためにする血気躁狂《けっきそうきょう》の沙汰ではない。大きく云えば公平を好み中庸を愛する天意を現実にする天晴《あっぱれ》な美挙だ。人の許諾を経《へ》ずして吾妻橋《あずまばし》事件などを至る処に振り廻わす以上は、人の軒下に犬を忍
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