。「それは駄目に極《きま》っています。釣られて脊髄《せきずい》が延びるからなんで、早く云うと背が延びると云うより壊《こわ》れるんですからね」「それじゃ、まあ止《や》めよう」と主人は断念する。
 演説の続きは、まだなかなか長くあって寒月君は首縊りの生理作用にまで論及するはずでいたが、迷亭が無暗に風来坊《ふうらいぼう》のような珍語を挟《はさ》むのと、主人が時々遠慮なく欠伸《あくび》をするので、ついに中途でやめて帰ってしまった。その晩は寒月君がいかなる態度で、いかなる雄弁を振《ふる》ったか遠方で起った出来事の事だから吾輩には知れよう訳がない。
 二三日《にさんち》は事もなく過ぎたが、或る日の午後二時頃また迷亭先生は例のごとく空々《くうくう》として偶然童子のごとく舞い込んで来た。座に着くと、いきなり「君、越智東風《おちとうふう》の高輪事件《たかなわじけん》を聞いたかい」と旅順陥落の号外を知らせに来たほどの勢を示す。「知らん、近頃は合《あ》わんから」と主人は平生《いつも》の通り陰気である。「きょうはその東風子《とうふうし》の失策物語を御報道に及ぼうと思って忙しいところをわざわざ来たんだよ」「またそんな仰山《ぎょうさん》な事を云う、君は全体|不埒《ふらち》な男だ」「ハハハハハ不埒と云わんよりむしろ無埒《むらち》の方だろう。それだけはちょっと区別しておいて貰わんと名誉に関係するからな」「おんなし事だ」と主人は嘯《うそぶ》いている。純然たる天然居士の再来だ。「この前の日曜に東風子《とうふうし》が高輪泉岳寺《たかなわせんがくじ》に行ったんだそうだ。この寒いのによせばいいのに――第一|今時《いまどき》泉岳寺などへ参るのはさも東京を知らない、田舎者《いなかもの》のようじゃないか」「それは東風の勝手さ。君がそれを留める権利はない」「なるほど権利は正《まさ》にない。権利はどうでもいいが、あの寺内に義士遺物保存会と云う見世物があるだろう。君知ってるか」「うんにゃ」「知らない? だって泉岳寺へ行った事はあるだろう」「いいや」「ない? こりゃ驚ろいた。道理で大変東風を弁護すると思った。江戸っ子が泉岳寺を知らないのは情《なさ》けない」「知らなくても教師は務《つと》まるからな」と主人はいよいよ天然居士になる。「そりゃ好いが、その展覧場へ東風が這入《はい》って見物していると、そこへ独逸人《ドイツじん》が夫婦|連《づれ》で来たんだって。それが最初は日本語で東風に何か質問したそうだ。ところが先生例の通り独逸語が使って見たくてたまらん男だろう。そら二口三口べらべらやって見たとさ。すると存外うまく出来たんだ――あとで考えるとそれが災《わざわい》の本《もと》さね」「それからどうした」と主人はついに釣り込まれる。「独逸人が大鷹源吾《おおたかげんご》の蒔絵《まきえ》の印籠《いんろう》を見て、これを買いたいが売ってくれるだろうかと聞くんだそうだ。その時東風の返事が面白いじゃないか、日本人は清廉の君子《くんし》ばかりだから到底《とうてい》駄目だと云ったんだとさ。その辺は大分《だいぶ》景気がよかったがAそれから独逸人の方では恰好《かっこう》な通弁を得たつもりでしきりに聞くそうだ」「何を?」「それがさ、何だか分るくらいなら心配はないんだが、早口で無暗《むやみ》に問い掛けるものだから少しも要領を得ないのさ。たまに分るかと思うと鳶口《とびぐち》や掛矢[#「掛矢」に傍点]の事を聞かれる。西洋の鳶口や掛矢[#「掛矢」に傍点]は先生何と翻訳して善いのか習った事が無いんだから弱《よ》わらあね」「もっともだ」と主人は教師の身の上に引き較《くら》べて同情を表する。「ところへ閑人《ひまじん》が物珍しそうにぽつぽつ集ってくる。仕舞《しまい》には東風と独逸人を四方から取り巻いて見物する。東風は顔を赤くしてへどもどする。初めの勢に引き易《か》えて先生大弱りの体《てい》さ」「結局どうなったんだい」「仕舞に東風が我慢出来なくなったと見えてさいなら[#「さいなら」に傍点]と日本語で云ってぐんぐん帰って来たそうだ、さいなら[#「さいなら」に傍点]は少し変だ君の国ではさよなら[#「さよなら」に傍点]をさいなら[#「さいなら」に傍点]と云うかって聞いて見たら何やっぱりさよなら[#「さよなら」に傍点]ですが相手が西洋人だから調和を計るために、さいなら[#「さいなら」に傍点]にしたんだって、東風子は苦しい時でも調和を忘れない男だと感心した」「さいならはいいが西洋人はどうした」「西洋人はあっけに取られて茫然《ぼうぜん》と見ていたそうだハハハハ面白いじゃないか」「別段面白い事もないようだ。それをわざわざ報知《しらせ》に来る君の方がよっぽど面白いぜ」と主人は巻煙草《まきたばこ》の灰を火桶《ひおけ》の中へはたき落す。折柄《おりから》格子戸のベルが飛び上るほど鳴って「御免なさい」と鋭どい女の声がする。迷亭と主人は思わず顔を見合わせて沈黙する。
 主人のうちへ女客は稀有《けう》だなと見ていると、かの鋭どい声の所有主は縮緬《ちりめん》の二枚重ねを畳へ擦《す》り付けながら這入《はい》って来る。年は四十の上を少し超《こ》したくらいだろう。抜け上った生《は》え際《ぎわ》から前髪が堤防工事のように高く聳《そび》えて、少なくとも顔の長さの二分の一だけ天に向ってせり出している。眼が切り通しの坂くらいな勾配《こうばい》で、直線に釣るし上げられて左右に対立する。直線とは鯨《くじら》より細いという形容である。鼻だけは無暗に大きい。人の鼻を盗んで来て顔の真中へ据《す》え付けたように見える。三坪ほどの小庭へ招魂社《しょうこんしゃ》の石灯籠《いしどうろう》を移した時のごとく、独《ひと》りで幅を利かしているが、何となく落ちつかない。その鼻はいわゆる鍵鼻《かぎばな》で、ひと度《たび》は精一杯高くなって見たが、これではあんまりだと中途から謙遜《けんそん》して、先の方へ行くと、初めの勢に似ず垂れかかって、下にある唇を覗《のぞ》き込んでいる。かく著《いちじ》るしい鼻だから、この女が物を言うときは口が物を言うと云わんより、鼻が口をきいているとしか思われない。吾輩はこの偉大なる鼻に敬意を表するため、以来はこの女を称して鼻子《はなこ》鼻子と呼ぶつもりである。鼻子は先ず初対面の挨拶を終って「どうも結構な御住居《おすまい》ですこと」と座敷中を睨《ね》め廻わす。主人は「嘘をつけ」と腹の中で言ったまま、ぷかぷか煙草《たばこ》をふかす。迷亭は天井を見ながら「君、ありゃ雨洩《あまも》りか、板の木目《もくめ》か、妙な模様が出ているぜ」と暗に主人を促《うな》がす。「無論雨の洩りさ」と主人が答えると「結構だなあ」と迷亭がすまして云う。鼻子は社交を知らぬ人達だと腹の中で憤《いきどお》る。しばらくは三人|鼎坐《ていざ》のまま無言である。
「ちと伺いたい事があって、参ったんですが」と鼻子は再び話の口を切る。「はあ」と主人が極めて冷淡に受ける。これではならぬと鼻子は、「実は私はつい御近所で――あの向う横丁の角屋敷《かどやしき》なんですが」「あの大きな西洋館の倉のあるうちですか、道理であすこには金田《かねだ》と云う標札《ひょうさつ》が出ていますな」と主人はようやく金田の西洋館と、金田の倉を認識したようだが金田夫人に対する尊敬の度合《どあい》は前と同様である。「実は宿《やど》が出まして、御話を伺うんですが会社の方が大変忙がしいもんですから」と今度は少し利《き》いたろうという眼付をする。主人は一向《いっこう》動じない。鼻子の先刻《さっき》からの言葉遣いが初対面の女としてはあまり存在《ぞんざい》過ぎるのですでに不平なのである。「会社でも一つじゃ無いんです、二つも三つも兼ねているんです。それにどの会社でも重役なんで――多分御存知でしょうが」これでも恐れ入らぬかと云う顔付をする。元来ここの主人は博士[#「博士」に傍点]とか大学教授[#「大学教授」に傍点]とかいうと非常に恐縮する男であるが、妙な事には実業家に対する尊敬の度は極めて低い。実業家よりも中学校の先生の方がえらいと信じている。よし信じておらんでも、融通の利かぬ性質として、到底実業家、金満家の恩顧を蒙《こうむ》る事は覚束《おぼつか》ないと諦《あき》らめている。いくら先方が勢力家でも、財産家でも、自分が世話になる見込のないと思い切った人の利害には極めて無頓着である。それだから学者社会を除いて他の方面の事には極めて迂濶《うかつ》で、ことに実業界などでは、どこに、だれが何をしているか一向知らん。知っても尊敬畏服の念は毫《ごう》も起らんのである。鼻子の方では天《あめ》が下《した》の一隅にこんな変人がやはり日光に照らされて生活していようとは夢にも知らない。今まで世の中の人間にも大分《だいぶ》接して見たが、金田の妻《さい》ですと名乗って、急に取扱いの変らない場合はない、どこの会へ出ても、どんな身分の高い人の前でも立派に金田夫人で通して行かれる、いわんやこんな燻《くすぶ》り返った老書生においてをやで、私《わたし》の家《うち》は向う横丁の角屋敷《かどやしき》ですとさえ云えば職業などは聞かぬ先から驚くだろうと予期していたのである。
「金田って人を知ってるか」と主人は無雑作《むぞうさ》に迷亭に聞く。「知ってるとも、金田さんは僕の伯父の友達だ。この間なんざ園遊会へおいでになった」と迷亭は真面目な返事をする。「へえ、君の伯父さんてえな誰だい」「牧山男爵《まきやまだんしゃく》さ」と迷亭はいよいよ真面目である。主人が何か云おうとして云わぬ先に、鼻子は急に向き直って迷亭の方を見る。迷亭は大島紬《おおしまつむぎ》に古渡更紗《こわたりさらさ》か何か重ねてすましている。「おや、あなたが牧山様の――何でいらっしゃいますか、ちっとも存じませんで、はなはだ失礼を致しました。牧山様には始終御世話になると、宿《やど》で毎々|御噂《おうわさ》を致しております」と急に叮嚀《ていねい》な言葉使をして、おまけに御辞儀までする、迷亭は「へええ何、ハハハハ」と笑っている。主人はあっ気《け》に取られて無言で二人を見ている。「たしか娘の縁辺《えんぺん》の事につきましてもいろいろ牧山さまへ御心配を願いましたそうで……」「へえー、そうですか」とこればかりは迷亭にもちと唐突《とうとつ》過ぎたと見えてちょっと魂消《たまげ》たような声を出す。「実は方々からくれくれと申し込はございますが、こちらの身分もあるものでございますから、滅多《めった》な所《とこ》へも片付けられませんので……」「ごもっともで」と迷亭はようやく安心する。「それについて、あなたに伺おうと思って上がったんですがね」と鼻子は主人の方を見て急に存在《ぞんざい》な言葉に返る。「あなたの所へ水島寒月《みずしまかんげつ》という男が度々《たびたび》上がるそうですが、あの人は全体どんな風な人でしょう」「寒月の事を聞いて、何《なん》にするんです」と主人は苦々《にがにが》しく云う。「やはり御令嬢の御婚儀上の関係で、寒月君の性行《せいこう》の一斑《いっぱん》を御承知になりたいという訳でしょう」と迷亭が気転を利《き》かす。「それが伺えれば大変都合が宜《よろ》しいのでございますが……」「それじゃ、御令嬢を寒月におやりになりたいとおっしゃるんで」「やりたいなんてえんじゃ無いんです」と鼻子は急に主人を参らせる。「ほかにもだんだん口が有るんですから、無理に貰っていただかないだって困りゃしません」「それじゃ寒月の事なんか聞かんでも好いでしょう」と主人も躍起《やっき》となる。「しかし御隠しなさる訳もないでしょう」と鼻子も少々喧嘩腰になる。迷亭は双方の間に坐ってA銀煙管《ぎんぎせる》を軍配団扇《ぐんばいうちわ》のように持って、心の裡《うち》で八卦《はっけ》よいやよいやと怒鳴っている。「じゃあ寒月の方で是非貰いたいとでも云ったのですか」と主人が正面から鉄砲を喰《くら》わせる。「貰いたいと云ったんじゃないんですけれども……」「貰いたいだろうと思っていらっしゃるんですか」と主人はこの婦人鉄
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