いう紙で今日から謡や俳句をやめて絵をかく決心と見えた。果して翌日から当分の間というものは毎日毎日書斎で昼寝もしないで絵ばかりかいている。しかしそのかき上げたものを見ると何をかいたものやら誰にも鑑定がつかない。当人もあまり甘《うま》くないと思ったものか、ある日その友人で美学とかをやっている人が来た時に下《しも》のような話をしているのを聞いた。
「どうも甘《うま》くかけないものだね。人のを見ると何でもないようだが自《みずか》ら筆をとって見ると今更《いまさら》のようにむずかしく感ずる」これは主人の述懐《じゅっかい》である。なるほど詐《いつわ》りのない処だ。彼の友は金縁の眼鏡越《めがねごし》に主人の顔を見ながら、「そう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像ばかりで画《え》がかける訳のものではない。昔《むか》し以太利《イタリー》の大家アンドレア・デル・サルトが言った事がある。画をかくなら何でも自然その物を写せ。天に星辰《せいしん》あり。地に露華《ろか》あり。飛ぶに禽《とり》あり。走るに獣《けもの》あり。池に金魚あり。枯木《こぼく》に寒鴉《かんあ》あり。自然はこれ一幅の大活画《だいかつが》なりと。どうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら」
「へえアンドレア・デル・サルトがそんな事をいった事があるかい。ちっとも知らなかった。なるほどこりゃもっともだ。実にその通りだ」と主人は無暗《むやみ》に感心している。金縁の裏には嘲《あざ》けるような笑《わらい》が見えた。
 その翌日吾輩は例のごとく椽側《えんがわ》に出て心持善く昼寝《ひるね》をしていたら、主人が例になく書斎から出て来て吾輩の後《うし》ろで何かしきりにやっている。ふと眼が覚《さ》めて何をしているかと一分《いちぶ》ばかり細目に眼をあけて見ると、彼は余念もなくアンドレア・デル・サルトを極《き》め込んでいる。吾輩はこの有様を見て覚えず失笑するのを禁じ得なかった。彼は彼の友に揶揄《やゆ》せられたる結果としてまず手初めに吾輩を写生しつつあるのである。吾輩はすでに十分《じゅうぶん》寝た。欠伸《あくび》がしたくてたまらない。しかしせっかく主人が熱心に筆を執《と》っているのを動いては気の毒だと思って、じっと辛棒《しんぼう》しておった。彼は今吾輩の輪廓をかき上げて顔のあたりを色彩《いろど》っている。吾輩は自白する。吾輩は猫として決して上乗の出来ではない。背といい毛並といい顔の造作といいあえて他の猫に勝《まさ》るとは決して思っておらん。しかしいくら不器量の吾輩でも、今吾輩の主人に描《えが》き出されつつあるような妙な姿とは、どうしても思われない。第一色が違う。吾輩は波斯産《ペルシャさん》の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆《うるし》のごとき斑入《ふい》りの皮膚を有している。これだけは誰が見ても疑うべからざる事実と思う。しかるに今主人の彩色を見ると、黄でもなければ黒でもない、灰色でもなければ褐色《とびいろ》でもない、さればとてこれらを交ぜた色でもない。ただ一種の色であるというよりほかに評し方のない色である。その上不思議な事は眼がない。もっともこれは寝ているところを写生したのだから無理もないが眼らしい所さえ見えないから盲猫《めくら》だか寝ている猫だか判然しないのである。吾輩は心中ひそかにいくらアンドレア・デル・サルトでもこれではしようがないと思った。しかしその熱心には感服せざるを得ない。なるべくなら動かずにおってやりたいと思ったが、さっきから小便が催うしている。身内《みうち》の筋肉はむずむずする。最早《もはや》一分も猶予《ゆうよ》が出来ぬ仕儀《しぎ》となったから、やむをえず失敬して両足を前へ存分のして、首を低く押し出してあーあと大《だい》なる欠伸をした。さてこうなって見ると、もうおとなしくしていても仕方がない。どうせ主人の予定は打《ぶ》ち壊《こ》わしたのだから、ついでに裏へ行って用を足《た》そうと思ってのそのそ這い出した。すると主人は失望と怒り?~《か》き交ぜたような声をして、座敷の中から「この馬鹿野郎」と怒鳴《どな》った。この主人は人を罵《ののし》るときは必ず馬鹿野郎というのが癖である。ほかに悪口の言いようを知らないのだから仕方がないが、今まで辛棒した人の気も知らないで、無暗《むやみ》に馬鹿野郎|呼《よば》わりは失敬だと思う。それも平生吾輩が彼の背中《せなか》へ乗る時に少しは好い顔でもするならこの漫罵《まんば》も甘んじて受けるが、こっちの便利になる事は何一つ快くしてくれた事もないのに、小便に立ったのを馬鹿野郎とは酷《ひど》い。元来人間というものは自己の力量に慢じてみんな増長している。少し人間より強いものが出て来て窘《いじ》めてやらなくてはこの先どこまで増長するか分らない。
 我儘《わがまま》もこのくらいなら我慢するが吾輩は人間の不徳についてこれよりも数倍悲しむべき報道を耳にした事がある。
 吾輩の家の裏に十坪ばかりの茶園《ちゃえん》がある。広くはないが瀟洒《さっぱり》とした心持ち好く日の当《あた》る所だ。うちの小供があまり騒いで楽々昼寝の出来ない時や、あまり退屈で腹加減のよくない折などは、吾輩はいつでもここへ出て浩然《こうぜん》の気を養うのが例である。ある小春の穏かな日の二時頃であったが、吾輩は昼飯後《ちゅうはんご》快よく一睡した後《のち》、運動かたがたこの茶園へと歩《ほ》を運ばした。茶の木の根を一本一本嗅ぎながら、西側の杉垣のそばまでくると、枯菊を押し倒してその上に大きな猫が前後不覚に寝ている。彼は吾輩の近づくのも一向《いっこう》心付かざるごとく、また心付くも無頓着なるごとく、大きな鼾《いびき》をして長々と体を横《よこた》えて眠っている。他《ひと》の庭内に忍び入りたるものがかくまで平気に睡《ねむ》られるものかと、吾輩は窃《ひそ》かにその大胆なる度胸に驚かざるを得なかった。彼は純粋の黒猫である。わずかに午《ご》を過ぎたる太陽は、透明なる光線を彼の皮膚の上に抛《な》げかけて、きらきらする柔毛《にこげ》の間より眼に見えぬ炎でも燃《も》え出《い》ずるように思われた。彼は猫中の大王とも云うべきほどの偉大なる体格を有している。吾輩の倍はたしかにある。吾輩は嘆賞の念と、好奇の心に前後を忘れて彼の前に佇立《ちょりつ》して余念もなく眺《なが》めていると、静かなる小春の風が、杉垣の上から出たる梧桐《ごとう》の枝を軽《かろ》く誘ってばらばらと二三枚の葉が枯菊の茂みに落ちた。大王はかっとその真丸《まんまる》の眼を開いた。今でも記憶している。その眼は人間の珍重する琥珀《こはく》というものよりも遥《はる》かに美しく輝いていた。彼は身動きもしない。双眸《そうぼう》の奥から射るごとき光を吾輩の矮小《わいしょう》なる額《ひたい》の上にあつめて、御めえ[#「御めえ」に傍点]は一体何だと云った。大王にしては少々言葉が卑《いや》しいと思ったが何しろその声の底に犬をも挫《ひ》しぐべき力が籠《こも》っているので吾輩は少なからず恐れを抱《いだ》いた。しかし挨拶《あいさつ》をしないと険呑《けんのん》だと思ったから「吾輩は猫である。名前はまだない」となるべく平気を装《よそお》って冷然と答えた。しかしこの時吾輩の心臓はたしかに平時よりも烈しく鼓動しておった。彼は大《おおい》に軽蔑《けいべつ》せる調子で「何、猫だ? 猫が聞いてあきれらあ。全《ぜんtてえどこに住んでるんだ」随分|傍若無人《ぼうじゃくぶじん》である。「吾輩はここの教師の家《うち》にいるのだ」「どうせそんな事だろうと思った。いやに瘠《や》せてるじゃねえか」と大王だけに気焔《きえん》を吹きかける。言葉付から察するとどうも良家の猫とも思われない。しかしその膏切《あぶらぎ》って肥満しているところを見ると御馳走を食ってるらしい、豊かに暮しているらしい。吾輩は「そう云う君は一体誰だい」と聞かざるを得なかった。「己《お》れあ車屋の黒《くろ》よ」昂然《こうぜん》たるものだ。車屋の黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。しかし車屋だけに強いばかりでちっとも教育がないからあまり誰も交際しない。同盟敬遠主義の的《まと》になっている奴だ。吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起すと同時に、一方では少々|軽侮《けいぶ》の念も生じたのである。吾輩はまず彼がどのくらい無学であるかを試《ため》してみようと思って左《さ》の問答をして見た。
「一体車屋と教師とはどっちがえらいだろう」
「車屋の方が強いに極《きま》っていらあな。御めえ[#「御めえ」に傍点]のうち[#「うち」に傍点]の主人を見ねえ、まるで骨と皮ばかりだぜ」
「君も車屋の猫だけに大分《だいぶ》強そうだ。車屋にいると御馳走《ごちそう》が食えると見えるね」
「何《なあ》におれ[#「おれ」に傍点]なんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。御めえ[#「御めえ」に傍点]なんかも茶畠《ちゃばたけ》ばかりぐるぐる廻っていねえで、ちっと己《おれ》の後《あと》へくっ付いて来て見ねえ。一と月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ」
「追ってそう願う事にしよう。しかし家《うち》は教師の方が車屋より大きいのに住んでいるように思われる」
「箆棒《べらぼう》め、うちなんかいくら大きくたって腹の足《た》しになるもんか」
 彼は大《おおい》に肝癪《かんしゃく》に障《さわ》った様子で、寒竹《かんちく》をそいだような耳をしきりとぴく付かせてあららかに立ち去った。吾輩が車屋の黒と知己《ちき》になったのはこれからである。
 その後《ご》吾輩は度々《たびたび》黒と邂逅《かいこう》する。邂逅する毎《ごと》に彼は車屋相当の気焔《きえん》を吐く。先に吾輩が耳にしたという不徳事件も実は黒から聞いたのである。
 或る日例のごとく吾輩と黒は暖かい茶畠《ちゃばたけ》の中で寝転《ねころ》びながらいろいろ雑談をしていると、彼はいつもの自慢話《じまんばな》しをさも新しそうに繰り返したあとで、吾輩に向って下《しも》のごとく質問した。「御めえ[#「御めえ」に傍点]は今までに鼠を何匹とった事がある」智識は黒よりも余程発達しているつもりだが腕力と勇気とに至っては到底《とうてい》黒の比較にはならないと覚悟はしていたものの、この問に接したる時は、さすがに極《きま》りが善《よ》くはなかった。けれども事実は事実で詐《いつわ》る訳には行かないから、吾輩は「実はとろうとろうと思ってまだ捕《と》らない」と答えた。黒は彼の鼻の先からぴんと突張《つっぱ》っている長い髭《ひげ》をびりびりと震《ふる》わせて非常に笑った。元来黒は自慢をする丈《だけ》にどこか足りないところがあって、彼の気焔《きえん》を感心したように咽喉《のど》をころころ鳴らして謹聴していればはなはだ御《ぎょ》しやすい猫である。吾輩は彼と近付になってから直《すぐ》にこの呼吸を飲み込んだからこの場合にもなまじい己《おの》れを弁護してますます形勢をわるくするのも愚《ぐ》である、いっその事彼に自分の手柄話をしゃべらして御茶を濁すに若《し》くはないと思案を定《さだ》めた。そこでおとなしく「君などは年が年であるから大分《だいぶん》とったろう」とそそのかして見た。果然彼は墻壁《しょうへき》の欠所《けっしょ》に吶喊《とっかん》して来た。「たんとでもねえが三四十はとったろう」とは得意気なる彼の答であった。彼はなお語をつづけて「鼠の百や二百は一人でいつでも引き受けるがいたち[#「いたち」に傍点]ってえ奴は手に合わねえ。一度いたち[#「いたち」に傍点]に向って酷《ひど》い目に逢《あ》った」「へえなるほど」と相槌《あいづち》を打つ。黒は大きな眼をぱちつかせて云う。「去年の大掃除の時だ。うちの亭主が石灰《いしばい》の袋を持って椽《えん》の下へ這《は》い込んだら御めえ[#「御めえ」に傍点]大きないたち[#「いたち」に傍点]の野郎が面喰《めんくら》って飛び出したと思いねえ」「ふん」と感心して見せる。「いたち[#「いたち」に傍点]ってけども何鼠の少し大きいぐれえのものだ。こん畜生《
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