相違ないね」
「次にはダイオジニスが出ている。或る人問う、妻を娶《めと》るいずれの時においてすべきか。ダイオジニス答えて曰く青年は未《いま》だし、老年はすでに遅し。とある」
「先生|樽《たる》の中で考えたね」
「ピサゴラス曰《いわ》く天下に三の恐るべきものあり曰く火、曰く水、曰く女」
「希臘《ギリシャ》の哲学者などは存外|迂濶《うかつ》な事を云うものだね。僕に云わせると天下に恐るべきものなし。火に入《い》って焼けず、水に入って溺れず……」だけで独仙君ちょっと行き詰る。
「女に逢ってとろけずだろう」と迷亭先生が援兵に出る。主人はさっさとあとを読む。
「ソクラチスは婦女子を御《ぎょ》するは人間の最大難事と云えり。デモスセニス曰く人もしその敵を苦しめんとせば、わが女を敵に与うるより策の得たるはあらず。家庭の風波に日となく夜《よ》となく彼を困憊《こんぱい》起つあたわざるに至らしむるを得ればなりと。セネカは婦女と無学をもって世界における二大厄とし、マーカス・オーレリアスは女子は制御し難き点において船舶に似たりと云い、プロータスは女子が綺羅《きら》を飾るの性癖をもってその天稟《てんぴん》の醜を蔽《おお》うの陋策《ろうさく》にもとづくものとせり。ヴァレリアスかつて書をその友某におくって告げて曰く天下に何事も女子の忍んでなし得ざるものあらず。願わくは皇天|憐《あわれみ》を垂れて、君をして彼等の術中に陥《おちい》らしむるなかれと。彼また曰く女子とは何ぞ。友愛の敵にあらずや。避くべからざる苦しみにあらずや、必然の害にあらずや、自然の誘惑にあらずや、蜜《みつ》に似たる毒にあらずや。もし女子を棄つるが不徳ならば、彼等を棄てざるは一層の呵責《かしゃく》と云わざるべからず。……」
「もう沢山です、先生。そのくらい愚妻のわる口を拝聴すれば申し分はありません」
「まだ四五ページあるから、ついでに聞いたらどうだ」
「もうたいていにするがいい。もう奥方の御帰りの刻限だろう」と迷亭先生がからかい掛けると、茶の間の方で
「清や、清や」と細君が下女を呼ぶ声がする。
「こいつは大変だ。奥方はちゃんといるぜ、君」
「ウフフフフ」と主人は笑いながら「構うものか」と云った。
「奥さん、奥さん。いつの間《ま》に御帰りですか」
 茶の間ではしんとして答がない。
「奥さん、今のを聞いたんですか。え?」
 答はまだない。
「今のはね、御主人の御考ではないですよ。十六世紀のナッシ君の説ですから御安心なさい」
「存じません」と妻君は遠くで簡単な返事をした。寒月君はくすくすと笑った。
「私も存じませんで失礼しましたアハハハハ」と迷亭君は遠慮なく笑ってると、門口《かどぐち》をあらあらしくあけて、頼むとも、御免とも云わず、大きな足音がしたと思ったら、座敷の唐紙が乱暴にあいて、多々良三平《たたらさんぺい》君の顔がその間からあらわれた。
 三平君今日はいつに似ず、真白なシャツに卸立《おろした》てのフロックを着て、すでに幾分か相場《そうば》を狂わせてる上へ、右の手へ重そうに下げた四本の麦酒《ビール》を縄ぐるみ、鰹節《かつぶし》の傍《そば》へ置くと同時に挨拶もせず、どっかと腰を下ろして、かつ膝を崩したのは目覚《めざま》しい武者振《むしゃぶり》である。
「先生胃病は近来いいですか。こうやって、うちにばかりいなさるから、いかんたい」
「まだ悪いとも何ともいやしない」
「いわんばってんが、顔色はよかなかごたる。先生顔色が黄《きい》ですばい。近頃は釣がいいです。品川から舟を一艘雇うて――私はこの前の日曜に行きました」
「何か釣れたかい」
「何も釣れません」
「釣れなくっても面白いのかい」
「浩然《こうぜん》の気を養うたい、あなた。どうですあなたがた。釣に行った事がありますか。面白いですよ釣は。大きな海の上を小舟で乗り廻わしてあるくのですからね」と誰彼の容赦なく話しかける。
「僕は小さな海の上を大船で乗り廻してあるきたいんだ」と迷亭君が相手になる。
「どうせ釣るなら、鯨《くじら》か人魚でも釣らなくっちゃ、詰らないです」と寒月君が答えた。
「そんなものが釣れますか。文学者は常識がないですね。……」
「僕は文学者じゃありません」
「そうですか、何ですかあなたは。私のようなビジネス・マンになると常識が一番大切ですからね。先生私は近来よっぽど常識に富んで来ました。どうしてもあんな所にいると、傍《はた》が傍だから、おのずから、そうなってしまうです」
「どうなってしまうのだ」
「煙草《たばこ》でもですね、朝日や、敷島《しきしま》をふかしていては幅が利《き》かんです」と云いながら、吸口に金箔《きんぱく》のついた埃及《エジプト》煙草を出して、すぱすぱ吸い出した、
「そんな贅沢《ぜいたく》をする金があるのかい」
「金はなかばって
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