は非常に苦しいのさ。ちょうど相撲が土俵の真中で四《よ》つに組んで動かないようなものだろう。はたから見ると平穏至極だが当人の腹は波を打っているじゃないか」
「喧嘩《けんか》も昔《むか》しの喧嘩は暴力で圧迫するのだからかえって罪はなかったが、近頃じゃなかなか巧妙になってるからなおなお自覚心が増してくるんだね」と番が迷亭先生の頭の上に廻って来る。「ベーコンの言葉に自然の力に従って始めて自然に勝つとあるが、今の喧嘩は正にベーコンの格言通りに出来上ってるから不思議だ。ちょうど柔術のようなものさ。敵の力を利用して敵を斃《たお》す事を考える……」
「または水力電気のようなものですね。水の力に逆らわないでかえってこれを電力に変化して立派に役に立たせる……」と寒月君が言いかけると、独仙君がすぐそのあとを引き取った。「だから貧時《ひんじ》には貧《ひん》に縛《ばく》せられ、富時《ふじ》には富《ふ》に縛せられ、憂時《ゆうじ》には憂《ゆう》に縛せられ、喜時《きじ》には喜《き》に縛せられるのさ。才人は才に斃《たお》れ、智者は智に敗れ、苦沙弥君のような癇癪持《かんしゃくも》ちは癇癪を利用さえすればすぐに飛び出して敵のぺてんに罹《かか》る……」
「ひやひや」と迷亭君が手をたたくと、苦沙弥君はにやにや笑いながら「これでなかなかそう甘《うま》くは行かないのだよ」と答えたら、みんな一度に笑い出した。
「時に金田のようなのは何で斃れるだろう」
「女房は鼻で斃れ、主人は因業《いんごう》で斃れ、子分は探偵で斃れか」
「娘は?」
「娘は――娘は見た事がないから何とも云えないが――まず着倒れか、食い倒れ、もしくは呑んだくれの類《たぐい》だろう。よもや恋い倒れにはなるまい。ことによると卒塔婆小町《そとばこまち》のように行き倒れになるかも知れない」
「それは少しひどい」と新体詩を捧げただけに東風君が異議を申し立てた。
「だから応無所住《おうむしょじゅう》而《に》生其心《しょうごしん》と云うのは大事な言葉だ、そう云う境界《きょうがい》に至らんと人間は苦しくてならん」と独仙君しきりに独《ひと》り悟ったような事を云う。
「そう威張るもんじゃないよ。君などはことによると電光影裏《でんこうえいり》にさか倒れをやるかも知れないぜ」
「とにかくこの勢で文明が進んで行った日にや僕は生きてるのはいやだ」と主人がいい出した。
「遠慮はいらないから死ぬさ」と迷亭が言下《ごんか》に道破《どうは》する。
「死ぬのはなおいやだ」と主人がわからん強情を張る。
「生れる時には誰も熟考して生れるものは有りませんが、死ぬ時には誰も苦にすると見えますね」と寒月君がよそよそしい格言をのべる。
「金を借りるときには何の気なしに借りるが、返す時にはみんな心配するのと同じ事さ」とこんな時にすぐ返事の出来るのは迷亭君である。
「借りた金を返す事を考えないものは幸福であるごとく、死ぬ事を苦にせんものは幸福さ」と独仙君は超然として出世間的《しゅっせけんてき》である。
「君のように云うとつまり図太《ずぶと》いのが悟ったのだね」
「そうさ、禅語に鉄牛面《てつぎゅうめん》の鉄牛心《てつぎゅうしん》、牛鉄面の牛鉄心と云うのがある」
「そうして君はその標本と云う訳かね」
「そうでもない。しかし死ぬのを苦にするようになったのは神経衰弱と云う病気が発明されてから以後の事だよ」
「なるほど君などはどこから見ても神経衰弱以前の民だよ」
 迷亭と独仙が妙な掛合《かけあい》をのべつにやっていると、主人は寒月東風二君を相手にしてしきりに文明の不平を述べている。
「どうして借りた金を返さずに済ますかが問題である」
「そんな問題はありませんよ。借りたものは返さなくちゃなりませんよ」
「まあさ。議論だから、だまって聞くがいい。どうして借りた金を返さずに済ますかが問題であるごとく、どうしたら死なずに済むかが問題である。いな問題であった。錬金術《れんきんじゅつ》はこれである。すべての錬金術は失敗した。人間はどうしても死ななければならん事が分明《ぶんみょう》になった」
「錬金術以前から分明ですよ」
「まあさ、議論だから、だまって聞いていろ。いいかい。どうしても死ななければならん事が分明になった時に第二の問題が起る」
「へえ」
「どうせ死ぬなら、どうして死んだらよかろう。これが第二の問題である。自殺クラブはこの第二の問題と共に起るべき運命を有している」
「なるほど」
「死ぬ事は苦しい、しかし死ぬ事が出来なければなお苦しい。神経衰弱の国民には生きている事が死よりもはなはだしき苦痛である。したがって死を苦にする。死ぬのが厭《いや》だから苦にするのではない、どうして死ぬのが一番よかろうと心配するのである。ただたいていのものは智慧《ちえ》が足りないから自然のままに放擲《ほう
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