ヲ、この野郎。しゃけ[#「しゃけ」に傍点]の一切や二切で相変らずたあ何だ。人を見縊《みく》びった事をいうねえ。憚《はばか》りながら車屋の黒だあ」と腕まくりの代りに右の前足を逆《さ》かに肩の辺《へん》まで掻《か》き上げた。「君が黒君だと云う事は、始めから知ってるさ」「知ってるのに、相変らずやってるたあ何だ。何だてえ事よ」と熱いのを頻《しき》りに吹き懸ける。人間なら胸倉《むなぐら》をとられて小突き廻されるところである。少々|辟易《へきえき》して内心困った事になったなと思っていると、再び例の神さんの大声が聞える。「ちょいと西川さん、おい西川さんてば、用があるんだよこの人あ。牛肉を一|斤《きん》すぐ持って来るんだよ。いいかい、分ったかい、牛肉の堅くないところを一斤だよ」と牛肉注文の声が四隣《しりん》の寂寞《せきばく》を破る。「へん年に一遍牛肉を誂《あつら》えると思って、いやに大きな声を出しゃあがらあ。牛肉一斤が隣り近所へ自慢なんだから始末に終えねえ阿魔《あま》だ」と黒は嘲《あざけ》りながら四つ足を踏張《ふんば》る。吾輩は挨拶のしようもないから黙って見ている。「一斤くらいじゃあ、承知が出来ねえんだが、仕方がねえ、いいから取っときゃ、今に食ってやらあ」と自分のために誂《あつら》えたもののごとくいう。「今度は本当の御馳走だ。結構結構」と吾輩はなるべく彼を帰そうとする。「御めっちの知った事じゃねえ。黙っていろ。うるせえや」と云いながら突然|後足《あとあし》で霜柱《しもばしら》の崩《くず》れた奴を吾輩の頭へばさりと浴《あ》びせ掛ける。吾輩が驚ろいて、からだの泥を払っている間《ま》に黒は垣根を潜《くぐ》って、どこかへ姿を隠した。大方西川の牛《ぎゅう》を覘《ねらい》に行ったものであろう。
 家《うち》へ帰ると座敷の中が、いつになく春めいて主人の笑い声さえ陽気に聞える。はてなと明け放した椽側から上《あが》って主人の傍《そば》へ寄って見ると見馴れぬ客が来ている。頭を奇麗に分けて、木綿《もめん》の紋付の羽織に小倉《こくら》の袴《はかま》を着けて至極《しごく》真面目そうな書生体《しょせいてい》の男である。主人の手あぶりの角を見ると春慶塗《しゅんけいぬ》りの巻煙草《まきたばこ》入れと並んで越智東風君《おちとうふうくん》を紹介致|候《そろ》水島寒月という名刺があるので、この客の名前も、寒月君の友人であるという事も知れた。主客《しゅかく》の対話は途中からであるから前後がよく分らんが、何でも吾輩が前回に紹介した美学者迷亭君の事に関しているらしい。
「それで面白い趣向があるから是非いっしょに来いとおっしゃるので」と客は落ちついて云う。「何ですか、その西洋料理へ行って午飯《ひるめし》を食うのについて趣向があるというのですか」と主人は茶を続《つ》ぎ足して客の前へ押しやる。「さあ、その趣向というのが、その時は私にも分らなかったんですが、いずれあの方《かた》の事ですから、何か面白い種があるのだろうと思いまして……」「いっしょに行きましたか、なるほど」「ところが驚いたのです」主人はそれ見たかと云わぬばかりに、膝《ひざ》の上に乗った吾輩の頭をぽかと叩《たた》く。少し痛い。「また馬鹿な茶番見たような事なんでしょう。あの男はあれが癖でね」と急にアンドレア・デル・サルト事件を思い出す。「へへー。君何か変ったものを食おうじゃないかとおっしゃるので」「何を食いました」「まず献立《こんだて》を見ながらいろいろ料理についての御話しがありました」「誂《あつ》らえない前にですか」「ええ」「それから」「それから首を捻《ひね》ってボイの方を御覧になって、どうも変ったものもないようだなとおっしゃるとボイは負けぬ気で鴨《かも》のロースか小牛のチャップなどは如何《いかが》ですと云うと、先生は、そんな月並《つきなみ》を食いにわざわざここまで来やしないとおっしゃるんで、ボイは月並という意味が分らんものですから妙な顔をして黙っていましたよ」「そうでしょう」「それから私の方を御向きになって、君|仏蘭西《フランス》や英吉利《イギリス》へ行くと随分|天明調《てんめいちょう》や万葉調《まんようちょう》が食えるんだが、日本じゃどこへ行ったって版で圧《お》したようで、どうも西洋料理へ這入《はい》る気がしないと云うような大気※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《だいきえん》で――全体あの方《かた》は洋行なすった事があるのですかな」「何迷亭が洋行なんかするもんですか、そりゃ金もあり、時もあり、行こうと思えばいつでも行かれるんですがね。大方これから行くつもりのところを、過去に見立てた洒落《しゃれ》なんでしょう」と主人は自分ながらうまい事を言ったつもりで誘い出し笑をする。客はさまで感服した様子もない。「そうですか、私
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