轤煖Cがつかなかったが今から考えると妙な事ばかり並べていたよ。僕のうちなどへ来て君あの松の木へカツレツが飛んできやしませんかの、僕の国では蒲鉾《かまぼこ》が板へ乗って泳いでいますのって、しきりに警句を吐いたものさ。ただ吐いているうちはよかったが君表のどぶ[#「どぶ」に傍点]へ金《きん》とん[#「とん」に傍点]を掘りに行きましょうと促《うな》がすに至っては僕も降参したね。それから二三日《にさんち》するとついに豚仙になって巣鴨へ収容されてしまった。元来豚なんぞが気狂になる資格はないんだが、全く独仙の御蔭であすこまで漕ぎ付けたんだね。独仙の勢力もなかなかえらいよ」
「へえ、今でも巣鴨にいるのかい」
「いるだんじゃない。自大狂《じだいきょう》で大気焔《だいきえん》を吐いている。近頃は立町老梅なんて名はつまらないと云うので、自《みずか》ら天道公平《てんどうこうへい》と号して、天道の権化《ごんげ》をもって任じている。すさまじいものだよ。まあちょっと行って見たまえ」
「天道公平?」
「天道公平だよ。気狂の癖にうまい名をつけたものだね。時々は孔平《こうへい》とも書く事がある。それで何でも世人が迷ってるからぜひ救ってやりたいと云うので、むやみに友人や何かへ手紙を出すんだね。僕も四五通貰ったが、中にはなかなか長い奴があって不足税を二度ばかりとられたよ」
「それじゃ僕の所《とこ》へ来たのも老梅から来たんだ」
「君の所へも来たかい。そいつは妙だ。やっぱり赤い状袋だろう」
「うん、真中が赤くて左右が白い。一風変った状袋だ」
「あれはね、わざわざ支那から取り寄せるのだそうだよ。天の道は白なり、地の道は白なり、人は中間に在《あ》って赤しと云う豚仙の格言を示したんだって……」
「なかなか因縁《いんねん》のある状袋だね」
「気狂だけに大《おおい》に凝《こ》ったものさ。そうして気狂になっても食意地だけは依然として存しているものと見えて、毎回必ず食物の事がかいてあるから奇妙だ。君の所へも何とか云って来たろう」
「うん、海鼠《なまこ》の事がかいてある」
「老梅は海鼠が好きだったからね。もっともだ。それから?」
「それから河豚《ふぐ》と朝鮮仁参《ちょうせんにんじん》か何か書いてある」
「河豚と朝鮮仁参の取り合せは旨《うま》いね。おおかた河豚を食って中《あた》ったら朝鮮仁参を煎《せん》じて飲めとでも云うつもりなんだろう」
「そうでもないようだ」
「そうでなくても構わないさ。どうせ気狂だもの。それっきりかい」
「まだある。苦沙弥先生御茶でも上がれと云う句がある」
「アハハハ御茶でも上がれはきびし過ぎる。それで大《おおい》に君をやり込めたつもりに違ない。大出来だ。天道公平君万歳だ」と迷亭先生は面白がって、大に笑い出す。主人は少からざる尊敬をもって反覆|読誦《どくしょう》した書翰《しょかん》の差出人が金箔《きんぱく》つきの狂人であると知ってから、最前の熱心と苦心が何だか無駄骨のような気がして腹立たしくもあり、また瘋癲病《ふうてんびょう》者の文章をさほど心労して翫味《がんみ》したかと思うと恥ずかしくもあり、最後に狂人の作にこれほど感服する以上は自分も多少神経に異状がありはせぬかとの疑念もあるので、立腹と、慚愧《ざんき》と、心配の合併した状態で何だか落ちつかない顔付をして控《ひか》えている。
折から表格子をあららかに開けて、重い靴の音が二た足ほど沓脱《くつぬぎ》に響いたと思ったら「ちょっと頼みます、ちょっと頼みます」と大きな声がする。主人の尻の重いに反して迷亭はまたすこぶる気軽な男であるから、御三《おさん》の取次に出るのも待たず、通れ[#「通れ」に傍点]と云いながら隔ての中の間《ま》を二た足ばかりに飛び越えて玄関に躍《おど》り出した。人のうちへ案内も乞わずにつかつか這入《はい》り込むところは迷惑のようだが、人のうちへ這入った以上は書生同様取次を務《つと》めるからはなはだ便利である。いくら迷亭でも御客さんには相違ない、その御客さんが玄関へ出張するのに主人たる苦沙弥先生が座敷へ構え込んで動かん法はない。普通の男ならあとから引き続いて出陣すべきはずであるが、そこが苦沙弥先生である。平気に座布団の上へ尻を落ちつけている。但《ただ》し落ちつけているのと、落ちついているのとは、その趣は大分《だいぶ》似ているが、その実質はよほど違う。
玄関へ飛び出した迷亭は何かしきりに弁じていたが、やがて奥の方を向いて「おい御主人ちょっと御足労だが出てくれたまえ。君でなくっちゃ、間に合わない」と大きな声を出す。主人はやむを得ず懐手《ふところで》のままのそりのそりと出てくる。見ると迷亭君は一枚の名刺を握ったまましゃがんで挨拶をしている。すこぶる威厳のない腰つきである。その名刺には警視庁刑事巡査|吉田虎蔵《よ
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