ニう》と浴びせかけられたのだから、朝鮮仁参《ちょうせんにんじん》も飴《あめ》ん棒の状袋もすっかり忘れてしまってただ苦しまぎれに妙な返事をする。
「私も……私も……ちょっと伺がうはずでありましたところ……何分よろしく」と云い終って頭を少々畳から上げて見ると老人は未《いま》だに平伏しているので、はっと恐縮してまた頭をぴたりと着けた。
 老人は呼吸を計って首をあげながら「私ももとはこちらに屋敷も在《あ》って、永らく御膝元でくらしたものでがすが、瓦解《がかい》の折にあちらへ参ってからとんと出てこんのでな。今来て見るとまるで方角も分らんくらいで、――迷亭にでも伴《つ》れてあるいてもらわんと、とても用達《ようたし》も出来ません。滄桑《そうそう》の変《へん》とは申しながら、御入国《ごにゅうこく》以来三百年も、あの通り将軍家の……」と云いかけると迷亭先生面倒だと心得て
「伯父さん将軍家もありがたいかも知れませんが、明治の代《よ》も結構ですぜ。昔は赤十字なんてものもなかったでしょう」
「それはない。赤十字などと称するものは全くない。ことに宮様の御顔を拝むなどと云う事は明治の御代《みよ》でなくては出来ぬ事だ。わしも長生きをした御蔭でこの通り今日《こんにち》の総会にも出席するし、宮殿下の御声もきくし、もうこれで死んでもいい」
「まあ久し振りで東京見物をするだけでも得ですよ。苦沙弥君、伯父はね。今度赤十字の総会があるのでわざわざ静岡から出て来てね、今日いっしょに上野へ出掛けたんだが今その帰りがけなんだよ。それだからこの通り先日僕が白木屋へ注文したフロックコートを着ているのさ」と注意する。なるほどフロックコートを着ている。フロックコートは着ているがすこしもからだに合わない。袖《そで》が長過ぎて、襟《えり》がおっ開《ぴら》いて、背中《せなか》へ池が出来て、腋《わき》の下が釣るし上がっている。いくら不恰好《ぶかっこう》に作ろうと云ったって、こうまで念を入れて形を崩《くず》す訳にはゆかないだろう。その上白シャツと白襟《しろえり》が離れ離れになって、仰《あお》むくと間から咽喉仏《のどぼとけ》が見える。第一黒い襟飾りが襟に属しているのか、シャツに属しているのか判然《はんぜん》しない。フロックはまだ我慢が出来るが白髪《しらが》のチョン髷《まげ》ははなはだ奇観である。評判の鉄扇《てっせん》はどうかと目を注《つ》けると膝の横にちゃんと引きつけている。主人はこの時ようやく本心に立ち返って、精神修養の結果を存分に老人の服装に応用して少々驚いた。まさか迷亭の話ほどではなかろうと思っていたが、逢って見ると話以上である。もし自分のあばた[#「あばた」に傍点]が歴史的研究の材料になるならば、この老人のチョン髷《まげ》や鉄扇はたしかにそれ以上の価値がある。主人はどうかしてこの鉄扇の由来を聞いて見たいと思ったが、まさか、打ちつけに質問する訳には行かず、と云って話を途切らすのも礼に欠けると思って
「だいぶ人が出ましたろう」と極《きわ》めて尋常な問をかけた。
「いや非常な人で、それでその人が皆わしをじろじろ見るので――どうも近来は人間が物見高くなったようでがすな。昔《むか》しはあんなではなかったが」
「ええ、さよう、昔はそんなではなかったですな」と老人らしい事を云う。これはあながち主人が知《し》っ高振《たかぶ》りをした訳ではない。ただ朦朧《もうろう》たる頭脳から好い加減に流れ出す言語と見れば差《さ》し支《つか》えない。
「それにな。皆この甲割《かぶとわ》りへ目を着けるので」
「その鉄扇は大分《だいぶ》重いものでございましょう」
「苦沙弥君、ちょっと持って見たまえ。なかなか重いよ。伯父さん持たして御覧なさい」
 老人は重たそうに取り上げて「失礼でがすが」と主人に渡す。京都の黒谷《くろだに》で参詣人《さんけいにん》が蓮生坊《れんしょうぼう》の太刀《たち》を戴《いただ》くようなかたで、苦沙弥先生しばらく持っていたが「なるほど」と云ったまま老人に返却した。
「みんながこれを鉄扇鉄扇と云うが、これは甲割《かぶとわり》と称《とな》えて鉄扇とはまるで別物で……」
「へえ、何にしたものでございましょう」
「兜を割るので、――敵の目がくらむ所を撃《う》ちとったものでがす。楠正成《くすのきまさしげ》時代から用いたようで……」
「伯父さん、そりゃ正成の甲割ですかね」
「いえ、これは誰のかわからん。しかし時代は古い。建武時代《けんむじだい》の作かも知れない」
「建武時代かも知れないが、寒月君は弱っていましたぜ。苦沙弥君、今日帰りにちょうどいい機会だから大学を通り抜けるついでに理科へ寄って、物理の実験室を見せて貰ったところがね。この甲割が鉄だものだから、磁力の器械が狂って大騒ぎさ」
「いや、そんなはずはない。これ
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