キか」
「馬鹿を云え。小使などに何が分かるものか」
 ここに至って下女もやむを得んと心得たものか、「へえ」と云って出て行った。使の主意はやはり飲み込めんのである。小使でも引張って来はせんかと心配していると、あに計らんや例の倫理の先生が表門から乗り込んで来た。平然と座に就《つ》くを待ち受けた主人は直ちに談判にとりかかる。
「ただ今邸内にこの者共が乱入致して……」と忠臣蔵のような古風な言葉を使ったが「本当に御校《おんこう》の生徒でしょうか」と少々皮肉に語尾を切った。
 倫理の先生は別段驚いた様子もなく、平気で庭前にならんでいる勇士を一通り見廻わした上、もとのごとく瞳《ひとみ》を主人の方にかえして、下《しも》のごとく答えた。
「さようみんな学校の生徒であります。こんな事のないように始終訓戒を加えておきますが……どうも困ったもので……なぜ君等は垣などを乗り越すのか」
 さすがに生徒は生徒である、倫理の先生に向っては一言《いちごん》もないと見えて何とも云うものはない。おとなしく庭の隅にかたまって羊の群《むれ》が雪に逢ったように控《ひか》えている。
「丸《たま》が這入《はい》るのも仕方がないでしょう。こうして学校の隣りに住んでいる以上は、時々はボールも飛んで来ましょう。しかし……あまり乱暴ですからな。仮令《たとい》垣を乗り越えるにしても知れないないように、そっと拾って行くなら、まだ勘弁のしようもありますが……」
「ごもっともで、よく注意は致しますが何分|多人数《たにんず》の事で……よくこれから注意をせんといかんぜ。もしボールが飛んだら表から廻って、御断りをして取らなければいかん。いいか。――広い学校の事ですからどうも世話ばかりやけて仕方がないです。で運動は教育上必要なものでありますから、どうもこれを禁ずる訳には参りかねるので。これを許すとつい御迷惑になるような事が出来ますが、これは是非御容赦を願いたいと思います。その代り向後《こうご》はきっと表門から廻って御断りを致した上で取らせますから」
「いや、そう事が分かればよろしいです。球《たま》はいくら御投げになっても差支《さしつか》えはないです。表からきてちょっと断わって下されば構いません。ではこの生徒はあなたに御引き渡し申しますからお連れ帰りを願います。いやわざわざ御呼び立て申して恐縮です」と主人は例によって例のごとく竜頭蛇尾《りゅうとうだび》の挨拶をする。倫理の先生は丹波の笹山を連れて表門から落雲館へ引き上げる。吾輩のいわゆる大事件はこれで一とまず落着を告げた。何のそれが大事件かと笑うなら、笑うがいい。そんな人には大事件でないまでだ。吾輩は主人の[#「主人の」に傍点]大事件を写したので、そんな人の[#「そんな人の」に傍点]大事件を記《しる》したのではない。尻が切れて強弩《きょうど》の末勢《ばっせい》だなどと悪口するものがあるなら、これが主人の特色である事を記憶して貰いたい。主人が滑稽文の材料になるのもまたこの特色に存する事を記憶して貰いたい。十四五の小供を相手にするのは馬鹿だと云うなら吾輩も馬鹿に相違ないと同意する。だから大町桂月は主人をつらまえて未《いま》だ稚気《ちき》を免がれずと云うている。
 吾輩はすでに小事件を叙し了《おわ》り、今また大事件を述べ了ったから、これより大事件の後《あと》に起る余瀾《よらん》を描《えが》き出だして、全篇の結びを付けるつもりである。すべて吾輩のかく事は、口から出任《でまか》せのいい加減と思う読者もあるかも知れないが決してそんな軽率な猫ではない。一字一句の裏《うち》に宇宙の一大哲理を包含するは無論の事、その一字一句が層々《そうそう》連続すると首尾相応じ前後相照らして、瑣談繊話《さだんせんわ》と思ってうっかりと読んでいたものが忽然《こつぜん》豹変《ひょうへん》して容易ならざる法語となるんだから、決して寝ころんだり、足を出して五行ごとに一度に読むのだなどと云う無礼を演じてはいけない。柳宗元《りゅうそうげん》は韓退之《かんたいし》の文を読むごとに薔薇《しょうび》の水《みず》で手を清めたと云うくらいだから、吾輩の文に対してもせめて自腹《じばら》で雑誌を買って来て、友人の御余りを借りて間に合わすと云う不始末だけはない事に致したい。これから述べるのは、吾輩|自《みずか》ら余瀾と号するのだけれど、余瀾ならどうせつまらんに極《きま》っている、読まんでもよかろうなどと思うと飛んだ後悔をする。是非しまいまで精読しなくてはいかん。
 大事件のあった翌日、吾輩はちょっと散歩がしたくなったから表へ出た。すると向う横町へ曲がろうと云う角で金田の旦那と鈴木の藤《とう》さんがしきりに立ちながら話をしている。金田君は車で自宅《うち》へ帰るところ、鈴木君は金田君の留守を訪問して引き返す途中で両
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