聞いて見るとこれも人間のひま潰《つぶ》しに案出した洗湯《せんとう》なるものだそうだ。どうせ人間の作ったものだから碌《ろく》なものでないには極《きま》っているがこの際の事だから試しに這入《はい》って見るのもよかろう。やって見て功験がなければよすまでの事だ。しかし人間が自己のために設備した浴場へ異類の猫を入れるだけの洪量《こうりょう》があるだろうか。これが疑問である。主人がすまして這入《はい》るくらいのところだから、よもや吾輩を断わる事もなかろうけれども万一お気の毒様を食うような事があっては外聞がわるい。これは一先《ひとま》ず容子《ようす》を見に行くに越した事はない。見た上でこれならよいと当りが付いたら、手拭を啣《くわ》えて飛び込んで見よう。とここまで思案を定めた上でのそのそと洗湯へ出掛けた。
横町を左へ折れると向うに高いとよ竹のようなものが屹立《きつりつ》して先から薄い煙を吐いている。これ即《すなわ》ち洗湯である。吾輩はそっと裏口から忍び込んだ。裏口から忍び込むのを卑怯《ひきょう》とか未練とか云うが、あれは表からでなくては訪問する事が出来ぬものが嫉妬《しっと》半分に囃《はや》し立てる繰《く》り言《ごと》である。昔から利口な人は裏口から不意を襲う事にきまっている。紳士養成|方《ほう》の第二巻第一章の五ページにそう出ているそうだ。その次のページには裏口は紳士の遺書にして自身徳を得るの門なりとあるくらいだ。吾輩は二十世紀の猫だからこのくらいの教育はある。あんまり軽蔑《けいべつ》してはいけない。さて忍び込んで見ると、左の方に松を割って八寸くらいにしたのが山のように積んであって、その隣りには石炭が岡のように盛ってある。なぜ松薪《まつまき》が山のようで、石炭が岡のようかと聞く人があるかも知れないが、別に意味も何もない、ただちょっと山と岡を使い分けただけである。人間も米を食ったり、鳥を食ったり、肴《さかな》を食ったり、獣《けもの》を食ったりいろいろの悪《あく》もの食いをしつくしたあげくついに石炭まで食うように堕落したのは不憫《ふびん》である。行き当りを見ると一間ほどの入口が明け放しになって、中を覗《のぞ》くとがんがらがんのがあんと物静かである。その向側《むこうがわ》で何かしきりに人間の声がする。いわゆる洗湯はこの声の発する辺《へん》に相違ないと断定したから、松薪と石炭の間に出来てる谷あいを通り抜けて左へ廻って、前進すると右手に硝子窓《ガラスまど》があって、そのそとに丸い小桶《こおけ》が三角形|即《すなわ》ちピラミッドのごとく積みかさねてある。丸いものが三角に積まれるのは不本意千万だろうと、ひそかに小桶諸君の意を諒《りょう》とした。小桶の南側は四五尺の間《あいだ》板が余って、あたかも吾輩を迎うるもののごとく見える。板の高さは地面を去る約一メートルだから飛び上がるには御誂《おあつら》えの上等である。よろしいと云いながらひらりと身を躍《おど》らすといわゆる洗湯は鼻の先、眼の下、顔の前にぶらついている。天下に何が面白いと云って、未《いま》だ食わざるものを食い、未だ見ざるものを見るほどの愉快はない。諸君もうちの主人のごとく一週三度くらい、この洗湯界に三十分|乃至《ないし》四十分を暮すならいいが、もし吾輩のごとく風呂と云う烽フを見た事がないなら、早く見るがいい。親の死目《しにめ》に逢《あ》わなくてもいいから、これだけは是非見物するがいい。世界広しといえどもこんな奇観《きかん》はまたとあるまい。
何が奇観だ? 何が奇観だって吾輩はこれを口にするを憚《はば》かるほどの奇観だ。この硝子窓《ガラスまど》の中にうじゃうじゃ、があがあ騒いでいる人間はことごとく裸体である。台湾の生蕃《せいばん》である。二十世紀のアダムである。そもそも衣装《いしょう》の歴史を繙《ひもと》けば――長い事だからこれはトイフェルスドレック君に譲って、繙くだけはやめてやるが、――人間は全く服装で持ってるのだ。十八世紀の頃大英国バスの温泉場においてボー・ナッシが厳重な規則を制定した時などは浴場内で男女共肩から足まで着物でかくしたくらいである。今を去る事六十年|前《ぜん》これも英国の去る都で図案学校を設立した事がある。図案学校の事であるから、裸体画、裸体像の模写、模型を買い込んで、ここ、かしこに陳列したのはよかったが、いざ開校式を挙行する一段になって当局者を初め学校の職員が大困却をした事がある。開校式をやるとすれば、市の淑女を招待しなければならん。ところが当時の貴婦人方の考によると人間は服装の動物である。皮を着た猿の子分ではないと思っていた。人間として着物をつけないのは象の鼻なきがごとく、学校の生徒なきがごとく、兵隊の勇気なきがごとく全くその本体を失《しっ》している。いやしくも本体を失している
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