サの女というのは何者かね」と主人は羨《うらや》ましそうに問いかける。元来主人は平常|枯木寒巌《こぼくかんがん》のような顔付はしているものの実のところは決して婦人に冷淡な方ではない、かつて西洋の或る小説を読んだら、その中にある一人物が出て来て、それが大抵の婦人には必ずちょっと惚《ほ》れる。勘定をして見ると往来を通る婦人の七割弱[#「七割弱」に傍点]には恋着《れんちゃく》するという事が諷刺的《ふうしてき》に書いてあったのを見て、これは真理だと感心したくらいな男である。そんな浮気な男が何故《なぜ》牡蠣的生涯を送っているかと云うのは吾輩猫などノは到底《とうてい》分らない。或人は失恋のためだとも云うし、或人は胃弱のせいだとも云うし、また或人は金がなくて臆病な性質《たち》だからだとも云う。どっちにしたって明治の歴史に関係するほどな人物でもないのだから構わない。しかし寒月君の女連《おんなづ》れを羨まし気《げ》に尋ねた事だけは事実である。寒月君は面白そうに口取《くちとり》の蒲鉾《かまぼこ》を箸で挟んで半分前歯で食い切った。吾輩はまた欠けはせぬかと心配したが今度は大丈夫であった。「なに二人とも去《さ》る所の令嬢ですよ、御存じの方《かた》じゃありません」と余所余所《よそよそ》しい返事をする。「ナール」と主人は引張ったが「ほど」を略して考えている。寒月君はもう善《い》い加減な時分だと思ったものか「どうも好い天気ですな、御閑《おひま》ならごいっしょに散歩でもしましょうか、旅順が落ちたので市中は大変な景気ですよ」と促《うな》がして見る。主人は旅順の陥落より女連《おんなづれ》の身元を聞きたいと云う顔で、しばらく考え込んでいたがようやく決心をしたものと見えて「それじゃ出るとしよう」と思い切って立つ。やはり黒木綿の紋付羽織に、兄の紀念《かたみ》とかいう二十年来|着古《きふ》るした結城紬《ゆうきつむぎ》の綿入を着たままである。いくら結城紬が丈夫だって、こう着つづけではたまらない。所々が薄くなって日に透かして見ると裏からつぎ[#「つぎ」に傍点]を当てた針の目が見える。主人の服装には師走《しわす》も正月もない。ふだん着も余所《よそ》ゆきもない。出るときは懐手《ふところで》をしてぶらりと出る。ほかに着る物がないからか、有っても面倒だから着換えないのか、吾輩には分らぬ。ただしこれだけは失恋のためとも思われない。
両人《ふたり》が出て行ったあとで、吾輩はちょっと失敬して寒月君の食い切った蒲鉾《かまぼこ》の残りを頂戴《ちょうだい》した。吾輩もこの頃では普通一般の猫ではない。まず桃川如燕《ももかわじょえん》以後の猫か、グレーの金魚を偸《ぬす》んだ猫くらいの資格は充分あると思う。車屋の黒などは固《もと》より眼中にない。蒲鉾の一切《ひときれ》くらい頂戴したって人からかれこれ云われる事もなかろう。それにこの人目を忍んで間食《かんしょく》をするという癖は、何も吾等猫族に限った事ではない。うちの御三《おさん》などはよく細君の留守中に餅菓子などを失敬しては頂戴し、頂戴しては失敬している。御三ばかりじゃない現に上品な仕付《しつけ》を受けつつあると細君から吹聴《ふいちょう》せられている小児《こども》ですらこの傾向がある。四五日前のことであったが、二人の小供が馬鹿に早くから眼を覚まして、まだ主人夫婦の寝ている間に対《むか》い合うて食卓に着いた。彼等は毎朝主人の食う麺麭《パン》の幾分に、砂糖をつけて食うのが例であるが、この日はちょうど砂糖壺《さとうつぼ》が卓《たく》の上に置かれて匙《さじ》さえ添えてあった。いつものように砂糖を分配してくれるものがないので、大きい方がやがて壺の中から一匙《ひとさじ》の砂糖をすくい出して自分の皿の上へあけた。すると小さいのが姉のした通り同分量の砂糖を同方法で自分の皿の上にあけた。少《しば》らく両人《りょうにん》は睨《にら》み合っていたが、大きいのがまた匙をとって一杯をわが皿の上に加えた。小さいのもすぐ匙をとってわが分量を姉と同一にした。すると姉がまた一杯すくった。妹も負けずに一杯を附加した。姉がまた壺へ手を懸ける、妹がまた匙をとる。見ている間《ま》に一杯一杯一杯と重なって、ついには両人《ふたり》の皿には山盛の砂糖が堆《うずたか》くなって、壺の中には一匙の砂糖も余っておらんようになったとき、主人が寝ぼけ眼《まなこ》を擦《こす》りながら寝室を出て来てせっかくしゃくい出した砂糖を元のごとく壺の中へ入れてしまった。こんなところを見ると、人間は利己主義から割り出した公平という念は猫より優《まさ》っているかも知れぬが、智慧《ちえ》はかえって猫より劣っているようだ。そんなに山盛にしないうちに早く甞《な》めてしまえばいいにと思ったが、例のごとく、吾輩の言う事などは通じないのだか
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