ん。こいつの方なら受け合えない代りに価段《ねだん》を引いておきますと云った。僕はこの問答を未《いま》だに記憶しているんだがその時小供心に女と云うものはなるほど油断のならないものだと思ったよ。――しかし明治三十八年の今日《こんにち》こんな馬鹿な真似をして女の子を売ってあるくものもなし、眼を放して後《うし》ろへ担《かつ》いだ方は険呑《けんのん》だなどと云う事も聞かないようだ。だから、僕の考ではやはり泰西《たいせい》文明の御蔭で女の品行もよほど進歩したものだろうと断定するのだが、どうだろう寒月君」
 寒月君は返事をする前にまず鷹揚《おうよう》な咳払《せきばらい》を一つして見せたが、それからわざと落ちついた低い声で、こんな観察を述べられた。「この頃の女は学校の行き帰りや、合奏会や、慈善会や、園遊会で、ちょいと買って頂戴な、あらおいや? などと自分で自分を売りにあるいていますから、そんな八百屋《やおや》のお余りを雇って、女の子はよしか、なんて下品な依托販売《いたくはんばい》をやる必要はないですよ。人間に独立心が発達してくると自然こんな風になるものです。老人なんぞはいらぬ取越苦労をして何とかかとか云いますが、実際を云うとこれが文明の趨勢《すうせい》ですから、私などは大《おおい》に喜ばしい現象だと、ひそかに慶賀の意を表しているのです。買う方だって頭を敲《たた》いて品物は確かかなんて聞くような野暮《やぼ》は一人もいないんですからその辺は安心なものでさあ。またこの複雑な世の中に、そんな手数《てすう》をする日にゃあ、際限がありませんからね。五十になったって六十になったって亭主を持つ事も嫁に行く事も出来やしません」寒月君は二十世紀の青年だけあって、大《おおい》に当世流の考を開陳《かいちん》しておいて、敷島《しきしま》の煙をふうーと迷亭先生の顔の方へ吹き付けた。迷亭は敷島の煙くらいで辟易《へきえき》する男ではない。「仰せの通り方今《ほうこん》の女生徒、令嬢などは自尊自信の念から骨も肉も皮まで出来ていて、何でも男子に負けないところが敬服の至りだ。僕の近所の女学校の生徒などと来たらえらいものだぜ。筒袖《つつそで》を穿《は》いて鉄棒《かなぼう》へぶら下がるから感心だ。僕は二階の窓から彼等の体操を目撃するたんびに古代|希臘《ギリシャ》の婦人を追懐するよ」「また希臘か」と主人が冷笑するように云い放つと「どうも美な感じのするものは大抵希臘から源を発しているから仕方がない。美学者と希臘とはとうてい離れられないやね。――ことにあの色の黒い女学生が一心不乱に体操をしているところを拝見すると、僕はいつでも Agnodice の逸話を思い出すのさ」と物知り顔にしゃべり立てる。「またむずかしい名前が出て来ましたね」と寒月君は依然としてにやにやする。「Agnodice はえらい女だよ、僕は実に感心したね。当時|亜典《アテン》の法律で女が産婆を営業する事を禁じてあった。不便な事さ。Agnodice だってその不便を感ずるだろうじゃないか」「何だい、その――何とか云うのは」「女さA女の名前だよ。この女がつらつら考えるには、どうも女が産婆になれないのは情けない、不便極まる。どうかして産婆になりたいもんだ、産婆になる工夫はあるまいかと三日三晩手を拱《こまぬ》いて考え込んだね。ちょうど三日目の暁方《あけがた》に、隣の家で赤ん坊がおぎゃあと泣いた声を聞いて、うんそうだと豁然大悟《かつぜんたいご》して、それから早速長い髪を切って男の着物をきて Hierophilus の講義をききに行った。首尾よく講義をきき終《おお》せて、もう大丈夫と云うところでもって、いよいよ産婆を開業した。ところが、奥さん流行《はや》りましたね。あちらでもおぎゃあ[#「おぎゃあ」に傍点]と生れるこちらでもおぎゃあ[#「おぎゃあ」に傍点]と生れる。それがみんな Agnodice の世話なんだから大変|儲《もう》かった。ところが人間万事|塞翁《さいおう》の馬、七転《ななころ》び八起《やお》き、弱り目に祟《たた》り目で、ついこの秘密が露見に及んでついに御上《おかみ》の御法度《ごはっと》を破ったと云うところで、重き御|仕置《しおき》に仰せつけられそうになりました」「まるで講釈見たようです事」「なかなか旨《うま》いでしょう。ところが亜典《アテン》の女連が一同連署して嘆願に及んだから、時の御奉行もそう木で鼻を括《くく》ったような挨拶も出来ず、ついに当人は無罪放免、これからはたとい女たりとも産婆営業勝手たるべき事と云う御布令《おふれ》さえ出てめでたく落着を告げました」「よくいろいろな事を知っていらっしゃるのね、感心ねえ」「ええ大概の事は知っていますよ。知らないのは自分の馬鹿な事くらいなものです。しかしそれも薄々は知ってます」「ホホホ
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