ば吾輩のように夏でも毛衣《けごろも》を着て通されるだけの修業をするがよろしい。――とは云うものの少々熱い。毛衣では全く熱《あ》つ過ぎる。
 これでは一手専売の昼寝も出来ない。何かないかな、永らく人間社会の観察を怠《おこた》ったから、今日は久し振りで彼等が酔興に齷齪《あくせく》する様子を拝見しようかと考えて見たが、生憎《あいにく》主人はこの点に関してすこぶる猫に近い性分《しょうぶん》である。昼寝は吾輩に劣らぬくらいやるし、ことに暑中休暇後になってからは何一つ人間らしい仕事をせんので、いくら観察をしても一向《いっこう》観察する張合がない。こんな時に迷亭でも来ると胃弱性の皮膚も幾分か反応を呈して、しばらくでも猫に遠ざかるだろうに、先生もう来ても好い時だと思っていると、誰とも知らず風呂場でざあざあ水を浴びるものがある。水を浴びる音ばかりではない、折々大きな声で相の手を入れている。「いや結構」「どうも良い心持ちだ」「もう一杯」などと家中《うちじゅう》に響き渡るような声を出す。主人のうちへ来てこんな大きな声と、こんな無作法《ぶさほう》な真似をやるものはほかにはない。迷亭に極《きま》っている。
 いよいよ来たな、これで今日半日は潰《つぶ》せると思っていると、先生汗を拭《ふ》いて肩を入れて例のごとく座敷までずかずか上って来て「奥さん、苦沙弥《くしゃみ》君はどうしました」と呼ばわりながら帽子を畳の上へ抛《ほう》り出す。細君は隣座敷で針箱の側《そば》へ突っ伏して好い心持ちに寝ている最中にワンワンと何だか鼓膜へ答えるほどの響がしたのではっと驚ろいて、醒《さ》めぬ眼をわざと※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って座敷へ出て来ると迷亭が薩摩上布《さつまじょうふ》を着て勝手な所へ陣取ってしきりに扇使いをしている。
「おやいらしゃいまし」と云ったが少々|狼狽《ろうばい》の気味で「ちっとも存じませんでした」と鼻の頭へ汗をかいたまま御辞儀をする。「いえ、今来たばかりなんですよ。今風呂場で御三《おさん》に水を掛けて貰ってね。ようやく生き帰ったところで――どうも暑いじゃありませんか」「この両三日《りょうさんち》は、ただじっとしておりましても汗が出るくらいで、大変御暑うございます。――でも御変りもございませんで」と細君は依然として鼻の汗をとらない。「ええありがとう。なに暑いくらいでそんなに変りゃしませんや。しかしこの暑さは別物ですよ。どうも体がだるくってね」「私《わたく》しなども、ついに昼寝などを致した事がないんでございますが、こう暑いとつい――」「やりますかね。好いですよ。昼寝られて、夜寝られりゃ、こんな結構な事はないでさあ」とあいかわらず呑気《のんき》な事を並べて見たがそれだけでは不足と見えて「私《わたし》なんざ、寝たくない、質《たち》でね。苦沙弥君などのように来るたんびに寝ている人を見ると羨《うらやま》しいですよ。もっとも胃弱にこの暑さは答えるからね。丈夫な人でも今日なんかは首を肩の上に載《の》せてるのが退儀でさあ。さればと云って載ってる以上はもぎとる訳にも行かずね」と迷亭君いつになく首の処置に窮している。「奥さんなんざ首の上へまだ載っけておくものがあるんだから、坐っちゃいられないはずだ。髷《まげ》の重みだけでも横になりたくなりますよ」と云うと細君は今まで寝ていたのが髷の恰好《かっこう》から露見したと思って「ホホホ口の悪い」と云いながら頭をいじって見る。
 迷亭はそんな事には頓着なく「奥さん、昨日《きのう》はね、屋根の上で玉子のフライをして見ましたよ」と妙な事を云う。「フライをどうなさったんでございます」「屋根の瓦があまり見事に焼けていましたから、ただ置くのも勿体ないと思ってね。バタを溶かして玉子を落したんでさあ」「あらまあ」「ところがやっぱり天日《てんぴ》は思うように行きませんや。なかなか半熟にならないから、下へおりて新聞を読んでいると客が来たもんだからつい忘れてしまって、今朝になって急に思い出して、もう大丈夫だろうと上って見たらね」「どうなっておりました」「半熟どころか、すっかり流れてしまいました」「おやおや」と細君は八の字を寄せながら感嘆した。
「しかし土用中あんなに涼しくって、今頃から暑くなるのは不思議ですね」「ほんとでございますよ。せんだってじゅうは単衣《ひとえ》では寒いくらいでございましたのに、一昨日《おととい》から急に暑くなりましてね」「蟹《かに》なら横に這《は》うところだが今年の気候はあとびさり[#「あとびさり」に傍点]をするんですよ。倒行《とうこう》して逆施《げきし》すまた可ならずやと云うような事を言っているかも知れない」「なんでござんす、それは」「いえ、何でもないのです。どうもこの気候の逆戻りをするところはまるでハーキュリスの
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