を生ぜしめたのはかえってその無能力を推知し得るの具ともなり得るのである。
 吾輩は何の必要があってこんな議論をしたか忘れてしまった。本《もと》を忘却するのは人間にさえありがちの事であるから猫には当然の事さと大目に見て貰いたい。とにかく吾輩は寝室の障子をあけて敷居の上にぬっと現われた泥棒陰士を瞥見《べっけん》した時、以上の感想が自然と胸中に湧《わ》き出でたのである。なぜ湧いた?――なぜと云う質問が出れば、今一応考え直して見なければならん。――ええと、その訳はこうである。
 吾輩の眼前に悠然《ゆうぜん》とあらわれた陰士の顔を見るとその顔が――平常《ふだん》神の製作についてその出来栄《できばえ》をあるいは無能の結果ではあるまいかと疑っていたのに、それを一時に打ち消すに足るほどな特徴を有していたからである。特徴とはほかではない。彼の眉目《びもく》がわが親愛なる好男子水島寒月君に瓜《うり》二つであると云う事実である。吾輩は無論泥棒に多くの知己《ちき》は持たぬが、その行為の乱暴なところから平常《ふだん》想像して私《ひそ》かに胸中に描《えが》いていた顔はないでもない。小鼻の左右に展開した、一銭銅貨くらいの眼をつけた、毬栗頭《いがぐりあたま》にきまっていると自分で勝手に極《き》めたのであるが、見ると考えるとは天地の相違、想像は決して逞《たくまし》くするものではない。この陰士は背《せい》のすらりとした、色の浅黒い一の字眉の、意気で立派な泥棒である。年は二十六七歳でもあろう、それすら寒月君の写生である。神もこんな似た顔を二個製造し得る手際《てぎわ》があるとすれば、決して無能をもって目する訳には行かぬ。いや実際の事を云うと寒月君自身が気が変になって深夜に飛び出して来たのではあるまいかと、はっと思ったくらいよく似ている。ただ鼻の下に薄黒く髯《ひげ》の芽生《めば》えが植え付けてないのでさては別人だと気が付いた。寒月君は苦味《にがみ》ばしった好男子で、活動小切手と迷亭から称せられたる、金田富子嬢を優に吸収するに足るほどな念入れの製作物である。しかしこの陰士も人相から観察するとその婦人に対する引力上の作用において決して寒月君に一歩も譲らない。もし金田の令嬢が寒月君の眼付や口先に迷ったのなら、同等の熱度をもってこの泥棒君にも惚《ほ》れ込まなくては義理が悪い。義理はとにかく、論理に合わない。ああ云う才気のある、何でも早分りのする性質《たち》だからこのくらいの事は人から聞かんでもきっと分るであろう。して見ると寒月君の代りにこの泥棒を差し出しても必ず満身の愛を捧げて琴瑟《きんしつ》調和の実を挙げらるるに相違ない。万一寒月君が迷亭などの説法に動かされて、この千古の良縁が破れるとしても、この陰士が健在であるうちは大丈夫である。吾輩は未来の事件の発展をここまで予想して、富子嬢のために、やっと安心した。この泥棒君が天地の間に存在するのは富子嬢の生活を幸福ならしむる一大要件である。
 陰士は小脇になにか抱えている。見ると先刻《さっき》主人が書斎へ放り込んだ古毛布《ふるげっと》である。唐桟《とうざん》の半纏《はんてん》に、御納戸《おなんど》の博多《はかた》の帯を尻の上にむすんで、生白《なまじろ》い脛《すね》は膝《ひざ》から下むき出しのまま今や片足を挙げて畳の上へ入れる。先刻《さっき》から赤い本に指を噛《か》まれた夢を見ていた、主人はこの時寝返りを堂《どう》と打ちながら「寒月だ」と大きな声を出す。陰士は毛布《けっと》を落して、出した足を急に引き込ます。障子の影に細長い向脛《むこうずね》が二本立ったまま微《かす》かに動くのが見える。主人はうーん、むにゃむにゃと云いながら例の赤本を突き飛ばして、黒い腕を皮癬病《ひぜんや》みのようにぼりぼり掻《か》く。そのあとは静まり返って、枕をはずしたなり寝てしまう。寒月だと云ったのは全く我知らずの寝言と見える。陰士はしばらく椽側《えんがわ》に立ったまま室内の動静をうかがっていたが、主人夫婦の熟睡しているのを見済《みすま》してまた片足を畳の上に入れる。今度は寒月だと云う声も聞えぬ。やがて残る片足も踏み込む。一穂《いっすい》の春灯《しゅんとう》で豊かに照らされていた六畳の間《ま》は、陰士の影に鋭どく二分せられて柳行李《やなぎごうり》の辺《へん》から吾輩の頭の上を越えて壁の半《なか》ばが真黒になる。振り向いて見ると陰士の顔の影がちょうど壁の高さの三分の二の所に漠然《ばくぜん》と動いている。好男子も影だけ見ると、八《や》つ頭《がしら》の化《ば》け物《もの》のごとくまことに妙な恰好《かっこう》である。陰士は細君の寝顔を上から覗《のぞ》き込んで見たが何のためかにやにやと笑った。笑い方までが寒月君の模写であるには吾輩も驚いた。
 細君の枕元には四寸角の一尺五六
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