この極楽主義によって成功し、この極楽主義によって金時計をぶら下げ、この極楽主義で金田夫婦の依頼をうけ、同じくこの極楽主義でまんまと首尾よく苦沙弥君を説き落して当該《とうがい》事件が十中八九まで成就《じょうじゅ》したところへ、迷亭なる常規をもって律すべからざる、普通の人間以外の心理作用を有するかと怪まるる風来坊《ふうらいぼう》が飛び込んで来たので少々その突然なるに面喰《めんくら》っているところである。極楽主義を発明したものは明治の紳士で、極楽主義を実行するものは鈴木藤十郎君で、今この極楽主義で困却しつつあるものもまた鈴木藤十郎君である。
「君は何にも知らんからそうでもなかろう[#「そうでもなかろう」に傍点]などと澄し返って、例になく言葉寡《ことばずく》なに上品に控《ひか》え込むが、せんだってあの鼻の主が来た時の容子《ようす》を見たらいかに実業家|贔負《びいき》の尊公でも辟易《へきえき》するに極《きま》ってるよ、ねえ苦沙弥君、君|大《おおい》に奮闘したじゃないか」
「それでも君より僕の方が評判がいいそうだ」
「アハハハなかなか自信が強い男だ。それでなくてはサヴェジ・チーなんて生徒や教師にからかわれてすまして学校へ出ちゃいられん訳だ。僕も意志は決して人に劣らんつもりだが、そんなに図太くは出来ん敬服の至りだ」
「生徒や教師が少々愚図愚図言ったって何が恐ろしいものか、サントブーヴは古今独歩の評論家であるが巴里《パリ》大学で講義をした時は非常に不評判で、彼は学生の攻撃に応ずるため外出の際必ず匕首《あいくち》を袖《そで》の下に持って防禦《ぼうぎょ》の具となした事がある。ブルヌチェルがやはり巴里の大学でゾラの小説を攻撃した時は……」
「だって君ゃ大学の教師でも何でもないじゃないか。高がリードルの先生でそんな大家を例に引くのは雑魚《ざこ》が鯨《くじら》をもって自《みずか》ら喩《たと》えるようなもんだ、そんな事を云うとなおからかわれるぜ」
「黙っていろ。サントブーヴだって俺だって同じくらいな学者だ」
「大変な見識だな。しかし懐剣をもって歩行《ある》くだけはあぶないから真似《まね》ない方がいいよ。大学の教師が懐剣ならリードルの教師はまあ小刀《こがたな》くらいなところだな。しかしそれにしても刃物は剣呑《けんのん》だから仲見世《なかみせ》へ行っておもちゃの空気銃を買って来て背負《しょ》ってあるくがよかろう。愛嬌《あいきょう》があっていい。ねえ鈴木君」と云うと鈴木君はようやく話が金田事件を離れたのでほっと一息つきながら
「相変らず無邪気で愉快だ。十年振りで始めて君等に逢ったんで何だか窮屈な路次《ろじ》から広い野原へ出たような気持がする。どうも我々仲間の談話は少しも油断がならなくてね。何を云うにも気をおかなくちゃならんから心配で窮屈で実に苦しいよ。話は罪がないのがいいね。そして昔しの書生時代の友達と話すのが一番遠慮がなくっていい。ああ今日は図《はか》らず迷亭君に遇《あ》って愉快だった。僕はちと用事があるからこれで失敬する」と鈴木君が立ち懸《か》けると、迷亭も「僕もいこう、僕はこれから日本橋の演芸《えんげい》矯風会《きょうふうかい》に行かなくっちゃならんから、そこまでいっしょに行こう」「そりゃちょうどいい久し振りでいっしょに散歩しよう」と両君は手を携《たずさ》えて帰る。

        五

 二十四時間の出来事を洩《も》れなく書いて、洩れなく読むには少なくも二十四時間かかるだろう、いくら写生文を鼓吹《こすい》する吾輩でもこれは到底猫の企《くわだ》て及ぶべからざる芸当と自白せざるを得ない。従っていかに吾輩の主人が、二六時中精細なる描写に価する奇言奇行を弄《ろう》するにも関《かかわ》らず逐一これを読者に報知するの能力と根気のないのははなはだ遺憾《いかん》である。遺憾ではあるがやむを得ない。休養は猫といえども必要である。鈴木君と迷亭君の帰ったあとは木枯《こがら》しのはたと吹き息《や》んで、しんしんと降る雪の夜のごとく静かになった。主人は例のごとく書斎へ引き籠《こも》る。小供は六畳の間《ま》へ枕をならべて寝る。一間半の襖《ふすま》を隔てて南向の室《へや》には細君が数え年三つになる、めん子さんと添乳《そえぢ》して横になる。花曇りに暮れを急いだ日は疾《と》く落ちて、表を通る駒下駄の音さえ手に取るように茶の間へ響く。隣町《となりちょう》の下宿で明笛《みんてき》を吹くのが絶えたり続いたりして眠い耳底《じてい》に折々鈍い刺激を与える。外面《そと》は大方|朧《おぼろ》であろう。晩餐に半《はん》ぺんの煮汁《だし》で鮑貝《あわびがい》をからにした腹ではどうしても休養が必要である。
 ほのかに承《うけたま》われば世間には猫の恋とか称する俳諧《はいかい》趣味の現象があって、春さきは
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