。しかし残念な事には記憶が人一倍無い。美学原論を著わそうとする意志は充分あったのだがその意志を君に発表した翌日から忘れてしまった。それだから百日紅の散るまでに著書が出来なかったのは記憶の罪で意志の罪ではない。意志の罪でない以上は西洋料理などを奢る理由がないと威張っているのさ」
「なるほど迷亭君一流の特色を発揮して面白い」と鈴木君はなぜだか面白がっている。迷亭のおらぬ時の語気とはよほど違っている。これが利口な人の特色かも知れない。
「何が面白いものか」と主人は今でも怒《おこ》っている様子である。
「それは御気の毒様、それだからその埋合《うめあわ》せをするために孔雀《くじゃく》の舌なんかを金と太鼓で探しているじゃないか。まあそう怒《おこ》らずに待っているさ。しかし著書と云えば君、今日は一大珍報を齎《もた》らして来たんだよ」
「君はくるたびに珍報を齎らす男だから油断が出来ん」
「ところが今日の珍報は真の珍報さ。正札付一厘も引けなしの珍報さ。君寒月が博士論文の稿を起したのを知っているか。寒月はあんな妙に見識張った男だから博士論文なんて無趣味な労力はやるまいと思ったら、あれでやっぱり色気があるからおかしいじゃないか。君あの鼻に是非通知してやるがいい、この頃は団栗博士《どんぐりはかせ》の夢でも見ているかも知れない」
鈴木君は寒月の名を聞いて、話してはいけぬ話してはいけぬと顋《あご》と眼で主人に合図する。主人には一向《いっこう》意味が通じない。さっき鈴木君に逢って説法を受けた時は金田の娘の事ばかりが気の毒になったが、今迷亭から鼻々と云われるとまた先日喧嘩をした事を思い出す。思い出すと滑稽でもあり、また少々は悪《にく》らしくもなる。しかし寒月が博士論文を草しかけたのは何よりの御見《おみ》やげで、こればかりは迷亭先生自賛のごとくまずまず近来の珍報である。啻《ただ》に珍報のみならず、嬉しい快よい珍報である。金田の娘を貰おうが貰うまいがそんな事はまずどうでもよい。とにかく寒月の博士になるのは結構である。自分のように出来損いの木像は仏師屋の隅で虫が喰うまで白木《しらき》のまま燻《くすぶ》っていても遺憾《いかん》はないが、これは旨《うま》く仕上がったと思う彫刻には一日も早く箔《はく》を塗ってやりたい。
「本当に論文を書きかけたのか」と鈴木君の合図はそっち除《の》けにして、熱心に聞く。
「よく人の云う事を疑ぐる男だ。――もっとも問題は団栗《どんぐり》だか首縊《くびくく》りの力学だか確《しか》と分らんがね。とにかく寒月の事だから鼻の恐縮するようなものに違いない」
さっきから迷亭が鼻々と無遠慮に云うのを聞くたんびに鈴木君は不安の様子をする。迷亭は少しも気が付かないから平気なものである。
「その後鼻についてまた研究をしたが、この頃トリストラム・シャンデーの中に鼻論《はなろん》があるのを発見した。金田の鼻などもスターンに見せたら善い材料になったろうに残念な事だ。鼻名《びめい》を千載《せんざい》に垂れる資格は充分ありながら、あのままで朽《く》ち果つるとは不憫千万《ふびんせんばん》だ。今度ここへ来たら美学上の参考のために写生してやろう」と相変らず口から出任《でまか》せに喋舌《しゃべ》り立てる。
「しかしあの娘は寒月の所へ来たいのだそうだ」と主人が今鈴木君から聞いた通りを述べると、鈴木君はこれは迷惑だと云う顔付をしてしきりに主人に目くばせをするが、主人は不導体のごとく一向《いっこう》電気に感染しない。
「ちょっと乙《おつ》だな、あんな者の子でも恋をするところが、しかし大した恋じゃなかろう、大方|鼻恋《はなごい》くらいなところだぜ」
「鼻恋でも寒月が貰えばいいが」
「貰えばいいがって、君は先日大反対だったじゃないか。今日はいやに軟化しているぜ」
「軟化はせん、僕は決して軟化はせんしかし……」
「しかしどうか[#「どうか」に傍点]したんだろう。ねえ鈴木、君も実業家の末席《ばっせき》を汚《けが》す一人だから参考のために言って聞かせるがね。あの金田某なる者さ。あの某なるものの息女などを天下の秀才水島寒月の令夫人と崇《あが》め奉るのは、少々|提灯《ちょうちん》と釣鐘と云う次第で、我々|朋友《ほうゆう》たる者が冷々《れいれい》黙過する訳に行かん事だと思うんだが、たとい実業家の君でもこれには異存はあるまい」
「相変らず元気がいいね。結構だ。君は十年前と容子《ようす》が少しも変っていないからえらい」と鈴木君は柳に受けて、胡麻化《ごまか》そうとする。
「えらいと褒《ほ》めるなら、もう少し博学なところを御目にかけるがね。昔《むか》しの希臘人《ギリシャじん》は非常に体育を重んじたものであらゆる競技に貴重なる懸賞を出して百方奨励の策を講じたものだ。しかるに不思議な事には学者の智識[#「智
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