いかって頼まれたものだからね。僕も今までこんな世話はした事はないが、もし当人同士が嫌《い》やでないなら中へ立って纏《まと》めるのも、決して悪い事はないからね――それでやって来たのさ」
「御苦労様」と主人は冷淡に答えたが、腹の内では当人同士[#「当人同士」に傍点]と云う語《ことば》を聞いて、どう云う訳か分らんが、ちょっと心を動かしたのである。蒸《む》し熱い夏の夜に一縷《いちる》の冷風《れいふう》が袖口《そでぐち》を潜《くぐ》ったような気分になる。元来この主人はぶっ切ら棒の、頑固《がんこ》光沢《つや》消しを旨《むね》として製造された男であるが、さればと云って冷酷不人情な文明の産物とは自《おのず》からその撰《せん》を異《こと》にしている。彼が何《なん》ぞと云うと、むかっ腹をたててぷんぷんするのでも這裏《しゃり》の消息は会得《えとく》できる。先日鼻と喧嘩をしたのは鼻が気に食わぬからで鼻の娘には何の罪もない話しである。実業家は嫌いだから、実業家の片割れなる金田某も嫌《きらい》に相違ないがこれも娘その人とは没交渉の沙汰と云わねばならぬ。娘には恩も恨《うら》みもなくて、寒月は自分が実の弟よりも愛している門下生である。もし鈴木君の云うごとく、当人同志が好いた仲なら、間接にもこれを妨害するのは君子のなすべき所作《しょさ》でない。――苦沙弥先生はこれでも自分を君子と思っている。――もし当人同志が好いているなら――しかしそれが問題である。この事件に対して自己の態度を改めるには、まずその真相から確めなければならん。
「君その娘は寒月の所へ来たがってるのか。金田や鼻はどうでも構わんが、娘自身の意向はどうなんだ」
「そりゃ、その――何だね――何でも――え、来たがってるんだろうじゃないか」鈴木君の挨拶は少々|曖昧《あいまい》である。実は寒月君の事だけ聞いて復命さえすればいいつもりで、御嬢さんの意向までは確かめて来なかったのである。従って円転|滑脱《かつだつ》の鈴木君もちょっと狼狽《ろうばい》の気味に見える。
「だろう[#「だろう」に傍点]た判然しない言葉だ」と主人は何事によらず、正面から、どやし付けないと気がすまない。
「いや、これゃちょっと僕の云いようがわるかった。令嬢の方でもたしかに意《い》があるんだよ。いえ全くだよ――え?――細君が僕にそう云ったよ。何でも時々は寒月君の悪口を云う事もあるそうだがね」
「あの娘がか」
「ああ」
「怪《け》しからん奴だ、悪口を云うなんて。第一それじゃ寒月に意《い》がないんじゃないか」
「そこがさ、世の中は妙なもので、自分の好いている人の悪口などは殊更《ことさら》云って見る事もあるからね」
「そんな愚《ぐ》な奴がどこの国にいるものか」と主人は斯様《かよう》な人情の機微に立ち入った事を云われても頓《とん》と感じがない。
「その愚な奴が随分世の中にゃあるから仕方がない。現に金田の妻君もそう解釈しているのさ。戸惑《とまど》いをした糸瓜《へちま》のようだなんて、時々寒月さんの悪口を云いますから、よっぽど心の中《うち》では思ってるに相違ありませんと」
 主人はこの不可思議な解釈を聞いて、あまり思い掛けないものだから、眼を丸くして、返答もせず、鈴木君の顔を、大道易者《だいどうえきしゃ》のように眤《じっ》と見つめている。鈴木君はこいつ、この様子では、ことによるとやり損なうなと疳《かん》づいたと見えて、主人にも判断の出来そうな方面へと話頭を移す。
「君考えても分るじゃないか、あれだけの財産があってあれだけの器量なら、どこへだって相応の家《うち》へやれるだろうじゃないか。寒月だってえらい[#「えらい」に傍点]かも知れんが身分から云や――いや身分と云っちゃ失礼かも知れない。――財産と云う点から云や、まあ、だれが見たって釣り合わんのだからね。それを僕がわざわざ出張するくらい両親が気を揉《も》んでるのは本人が寒月君に意があるからの事じゃあないか」と鈴木君はなかなかうまい理窟をつけて説明を与える。今度は主人にも納得が出来たらしいのでようやく安心したが、こんなところにまごまごしているとまた吶喊《とっかん》を喰う危険があるから、早く話しの歩を進めて、一刻も早く使命を完《まっと》うする方が万全の策と心付いた。
「それでね。今云う通りの訳であるから、先方で云うには何も金銭や財産はいらんからその代り当人に附属した資格が欲しい――資格と云うと、まあ肩書だね、――博士になったらやってもいいなんて威張ってる次第じゃない――誤解しちゃいかん。せんだって細君の来た時は迷亭君がいて妙な事ばかり云うものだから――いえ君が悪いのじゃない。細君も君の事を御世辞のない正直ないい方《かた》だと賞《ほ》めていたよ。全く迷亭君がわるかったんだろう。――それでさ本人が博士にでもなってく
前へ 次へ
全188ページ中60ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング