砲に限ると覚《さと》ったらしい。「話しはそんなに運んでるんじゃありませんが――寒月さんだって満更《まんざら》嬉しくない事もないでしょう」と土俵際で持ち直す。「寒月が何かその御令嬢に恋着《れんちゃく》したというような事でもありますか」あるなら云って見ろと云う権幕《けんまく》で主人は反《そ》り返る。「まあ、そんな見当《けんとう》でしょうね」今度は主人の鉄砲が少しも功を奏しない。今まで面白気《おもしろげ》に行司《ぎょうじ》気取りで見物していた迷亭も鼻子の一言《いちごん》に好奇心を挑撥《ちょうはつ》されたものと見えて、煙管《きせる》を置いて前へ乗り出す。「寒月が御嬢さんに付《つ》け文《ぶみ》でもしたんですか、こりゃ愉快だ、新年になって逸話がまた一つ殖《ふ》えて話しの好材料になる」と一人で喜んでいる。「付け文じゃないんです、もっと烈しいんでさあ、御二人とも御承知じゃありませんか」と鼻子は乙《おつ》にからまって来る。「君知ってるか」と主人は狐付きのような顔をして迷亭に聞く。迷亭も馬鹿気《ばかげ》た調子で「僕は知らん、知っていりゃ君だ」とつまらんところで謙遜《けんそん》する。「いえ御両人共《おふたりとも》御存じの事ですよ」と鼻子だけ大得意である。「へえー」と御両人は一度に感じ入る。「御忘れになったら私《わた》しから御話をしましょう。去年の暮向島の阿部さんの御屋敷で演奏会があって寒月さんも出掛けたじゃありませんか、その晩帰りに吾妻橋《あずまばし》で何かあったでしょう――詳しい事は言いますまい、当人の御迷惑になるかも知れませんから――あれだけの証拠がありゃ充分だと思いますが、どんなものでしょう」と金剛石《ダイヤ》入りの指環の嵌《はま》った指を、膝の上へ併《なら》べて、つんと居ずまいを直す。偉大なる鼻がますます異彩を放って、迷亭も主人も有れども無きがごとき有様である。
主人は無論、さすがの迷亭もこの不意撃《ふいうち》には胆《きも》を抜かれたものと見えて、しばらくは呆然《ぼうぜん》として瘧《おこり》の落ちた病人のように坐っていたが、驚愕《きょうがく》の箍《たが》がゆるんでだんだん持前の本態に復すると共に、滑稽と云う感じが一度に吶喊《とっかん》してくる。両人《ふたり》は申し合せたごとく「ハハハハハ」と笑い崩れる。鼻子ばかりは少し当てがはずれて、この際笑うのははなはだ失礼だと両人を睨《にら》みつける。「あれが御嬢さんですか、なるほどこりゃいい、おっしゃる通りだ、ねえ苦沙弥《くしゃみ》君、全く寒月はお嬢さんを恋《おも》ってるに相違ないね……もう隠したってしようがないから白状しようじゃないか」「ウフン」と主人は云ったままである。「本当に御隠しなさってもいけませんよ、ちゃんと種は上ってるんですからね」と鼻子はまた得意になる。「こうなりゃ仕方がない。何でも寒月君に関する事実は御参考のために陳述するさ、おい苦沙弥君、君が主人だのに、そう、にやにや笑っていては埒《らち》があかんじゃないか、実に秘密というものは恐ろしいものだねえ。いくら隠しても、どこからか露見《ろけん》するからな。――しかし不思議と云えば不思議ですねえ、金田の奥さん、どうしてこの秘密を御探知になったんです、実に驚ろきますな」と迷亭は一人で喋舌《しゃべ》る。「私《わた》しの方だって、ぬかりはありませんやね」と鼻子はしたり顔をする。「あんまり、ぬかりが無さ過ぎるようですぜ。一体誰に御聞きになったんです」「じきこの裏にいる車屋の神《かみ》さんからです」「あの黒猫のいる車屋ですか」と主人は眼を丸くする。「ええ、寒月さんの事じゃ、よっぽど使いましたよ。寒月さんが、ここへ来る度に、どんな話しをするかと思って車屋の神さんを頼んで一々知らせて貰うんです」「そりゃ苛《ひど》い」と主人は大きな声を出す。「なあに、あなたが何をなさろうとおっしゃろうと、それに構ってるんじゃないんです。寒月さんの事だけですよ」「寒月の事だって、誰の事だって――全体あの車屋の神さんは気に食わん奴だ」と主人は一人|怒《おこ》り出す。「しかしあなたの垣根のそとへ来て立っているのは向うの勝手じゃありませんか、話しが聞えてわるけりゃもっと小さい声でなさるか、もっと大きなうちへ御這入《おはい》んなさるがいいでしょう」と鼻子は少しも赤面した様子がない。「車屋ばかりじゃありません。新ケ《しんみち》の二絃琴《にげんきん》の師匠からも大分《だいぶ》いろいろな事を聞いています」「寒月の事をですか」「寒月さんばかりの事じゃありません」と少し凄《すご》い事を云う。主人は恐れ入るかと思うと「あの師匠はいやに上品ぶって自分だけ人間らしい顔をしている、馬鹿野郎です」「憚《はばか》り様《さま》、女ですよ。野郎は御門違《おかどちが》いです」と鼻子の言葉使いはますます御里《お
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