フ心臓はたしかに平時よりも烈しく鼓動しておった。彼は大《おおい》に軽蔑《けいべつ》せる調子で「何、猫だ? 猫が聞いてあきれらあ。全《ぜんtてえどこに住んでるんだ」随分|傍若無人《ぼうじゃくぶじん》である。「吾輩はここの教師の家《うち》にいるのだ」「どうせそんな事だろうと思った。いやに瘠《や》せてるじゃねえか」と大王だけに気焔《きえん》を吹きかける。言葉付から察するとどうも良家の猫とも思われない。しかしその膏切《あぶらぎ》って肥満しているところを見ると御馳走を食ってるらしい、豊かに暮しているらしい。吾輩は「そう云う君は一体誰だい」と聞かざるを得なかった。「己《お》れあ車屋の黒《くろ》よ」昂然《こうぜん》たるものだ。車屋の黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。しかし車屋だけに強いばかりでちっとも教育がないからあまり誰も交際しない。同盟敬遠主義の的《まと》になっている奴だ。吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起すと同時に、一方では少々|軽侮《けいぶ》の念も生じたのである。吾輩はまず彼がどのくらい無学であるかを試《ため》してみようと思って左《さ》の問答をして見た。
「一体車屋と教師とはどっちがえらいだろう」
「車屋の方が強いに極《きま》っていらあな。御めえ[#「御めえ」に傍点]のうち[#「うち」に傍点]の主人を見ねえ、まるで骨と皮ばかりだぜ」
「君も車屋の猫だけに大分《だいぶ》強そうだ。車屋にいると御馳走《ごちそう》が食えると見えるね」
「何《なあ》におれ[#「おれ」に傍点]なんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。御めえ[#「御めえ」に傍点]なんかも茶畠《ちゃばたけ》ばかりぐるぐる廻っていねえで、ちっと己《おれ》の後《あと》へくっ付いて来て見ねえ。一と月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ」
「追ってそう願う事にしよう。しかし家《うち》は教師の方が車屋より大きいのに住んでいるように思われる」
「箆棒《べらぼう》め、うちなんかいくら大きくたって腹の足《た》しになるもんか」
彼は大《おおい》に肝癪《かんしゃく》に障《さわ》った様子で、寒竹《かんちく》をそいだような耳をしきりとぴく付かせてあららかに立ち去った。吾輩が車屋の黒と知己《ちき》になったのはこれからである。
その後《ご》吾輩は度々《たびたび》黒と邂逅《かいこう》する。邂逅する毎《ごと》に彼は車屋相当の気焔《きえん》を吐く。先に吾輩が耳にしたという不徳事件も実は黒から聞いたのである。
或る日例のごとく吾輩と黒は暖かい茶畠《ちゃばたけ》の中で寝転《ねころ》びながらいろいろ雑談をしていると、彼はいつもの自慢話《じまんばな》しをさも新しそうに繰り返したあとで、吾輩に向って下《しも》のごとく質問した。「御めえ[#「御めえ」に傍点]は今までに鼠を何匹とった事がある」智識は黒よりも余程発達しているつもりだが腕力と勇気とに至っては到底《とうてい》黒の比較にはならないと覚悟はしていたものの、この問に接したる時は、さすがに極《きま》りが善《よ》くはなかった。けれども事実は事実で詐《いつわ》る訳には行かないから、吾輩は「実はとろうとろうと思ってまだ捕《と》らない」と答えた。黒は彼の鼻の先からぴんと突張《つっぱ》っている長い髭《ひげ》をびりびりと震《ふる》わせて非常に笑った。元来黒は自慢をする丈《だけ》にどこか足りないところがあって、彼の気焔《きえん》を感心したように咽喉《のど》をころころ鳴らして謹聴していればはなはだ御《ぎょ》しやすい猫である。吾輩は彼と近付になってから直《すぐ》にこの呼吸を飲み込んだからこの場合にもなまじい己《おの》れを弁護してますます形勢をわるくするのも愚《ぐ》である、いっその事彼に自分の手柄話をしゃべらして御茶を濁すに若《し》くはないと思案を定《さだ》めた。そこでおとなしく「君などは年が年であるから大分《だいぶん》とったろう」とそそのかして見た。果然彼は墻壁《しょうへき》の欠所《けっしょ》に吶喊《とっかん》して来た。「たんとでもねえが三四十はとったろう」とは得意気なる彼の答であった。彼はなお語をつづけて「鼠の百や二百は一人でいつでも引き受けるがいたち[#「いたち」に傍点]ってえ奴は手に合わねえ。一度いたち[#「いたち」に傍点]に向って酷《ひど》い目に逢《あ》った」「へえなるほど」と相槌《あいづち》を打つ。黒は大きな眼をぱちつかせて云う。「去年の大掃除の時だ。うちの亭主が石灰《いしばい》の袋を持って椽《えん》の下へ這《は》い込んだら御めえ[#「御めえ」に傍点]大きないたち[#「いたち」に傍点]の野郎が面喰《めんくら》って飛び出したと思いねえ」「ふん」と感心して見せる。「いたち[#「いたち」に傍点]ってけども何鼠の少し大きいぐれえのものだ。こん畜生《
前へ
次へ
全188ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング