《ねんちゃくりょく》が強いので決して飛ばない。「いやに頑固《がんこ》だな」と主人は一生懸命に吹く。「ジャムばかりじゃないんです、ほかに買わなけりゃ、ならない物もあります」と妻君は大《おおい》に不平な気色《けしき》を両頬に漲《みなぎ》らす。「あるかも知れないさ」と主人はまた指を突っ込んでぐいと鼻毛を抜く。赤いのや、黒いのや、種々の色が交《まじ》る中に一本真白なのがある。大に驚いた様子で穴の開《あ》くほど眺めていた主人は指の股へ挟んだまま、その鼻毛を妻君の顔の前へ出す。「あら、いやだ」と妻君は顔をしかめて、主人の手を突き戻す。「ちょっと見ろ、鼻毛の白髪《しらが》だ」と主人は大に感動した様子である。さすがの妻君も笑いながら茶の間へ這入《はい》る。経済問題は断念したらしい。主人はまた天然居士《てんねんこじ》に取り懸《かか》る。
鼻毛で妻君を追払った主人は、まずこれで安心と云わぬばかりに鼻毛を抜いては原稿をかこうと焦《あせ》る体《てい》であるがなかなか筆は動かない。「焼芋を食う[#「焼芋を食う」に傍点]も蛇足《だそく》だ、割愛《かつあい》しよう」とついにこの句も抹殺《まっさつ》する。「香一※[#「火+主」、第3水準1−87−40][#「香一※[#「火+主」、第3水準1−87−40]」に傍点]もあまり唐突《とうとつ》だから已《や》めろ」と惜気もなく筆誅《ひっちゅう》する。余す所は「天然居士は空間を研究し論語を読む人である」と云う一句になってしまった。主人はこれでは何だか簡単過ぎるようだなと考えていたが、ええ面倒臭い、文章は御廃《おはい》しにして、銘だけにしろと、筆を十文字に揮《ふる》って原稿紙の上へ下手な文人画の蘭を勢よくかく。せっかくの苦心も一字残らず落第となった。それから裏を返して「空間に生れ、空間を究《きわ》め、空間に死す。空たり間たり天然居士《てんねんこじ》噫《ああ》」と意味不明な語を連《つら》ねているところへ例のごとく迷亭が這入《はい》って来る。迷亭は人の家《うち》も自分の家も同じものと心得ているのか案内も乞わず、ずかずか上ってくる、のみならず時には勝手口から飄然《ひょうぜん》と舞い込む事もある、心配、遠慮、気兼《きがね》、苦労、を生れる時どこかへ振り落した男である。
「また巨人引力[#「巨人引力」に傍点]かね」と立ったまま主人に聞く。「そう、いつでも巨人引力[#「巨人引力」に傍点]ばかり書いてはおらんさ。天然居士[#「天然居士」に傍点]の墓銘を撰《せん》しているところなんだ」と大袈裟《おおげさ》な事を云う。「天然居士[#「天然居士」に傍点]と云うなあやはり偶然童子[#「偶然童子」に傍点]のような戒名かね」と迷亭は不相変《あいかわらず》出鱈目《でたらめ》を云う。「偶然童子[#「偶然童子」に傍点]と云うのもあるのかい」「なに有りゃしないがまずその見当《けんとう》だろうと思っていらあね」「偶然童子[#「偶然童子」に傍点]と云うのは僕の知ったものじゃないようだが天然居士[#「天然居士」に傍点]と云うのは、君の知ってる男だぜ」「一体だれが天然居士[#「天然居士」に傍点]なんて名を付けてすましているんだい」「例の曾呂崎《そろさき》の事だ。卒業して大学院へ這入って空間論[#「空間論」に傍点]と云う題目で研究していたが、あまり勉強し過ぎて腹膜炎で死んでしまった。曾呂崎はあれでも僕の親友なんだからな」「親友でもいいさ、決して悪いと云やしない。しかしその曾呂崎を天然居士に変化させたのは一体誰の所作《しょさ》だい」「僕さ、僕がつけてやったんだ。元来坊主のつける戒名ほど俗なものは無いからな」と天然居士はよほど雅《が》な名のように自慢する。迷亭は笑いながら「まあその墓碑銘《ぼひめい》と云う奴を見せ給え」と原稿を取り上げて「何だ……空間に生れ、空間を究《きわ》め、空間に死す。空たり間たり天然居士|噫《ああ》」と大きな声で読み上《あげ》る。「なるほどこりゃあ善《い》い、天然居士相当のところだ」主人は嬉しそうに「善いだろう」と云う。「この墓銘《ぼめい》を沢庵石《たくあんいし》へ彫《ほ》り付けて本堂の裏手へ力石《ちからいし》のように抛《ほう》り出して置くんだね。雅《が》でいいや、天然居士も浮かばれる訳だ」「僕もそうしようと思っているのさ」と主人は至極《しごく》真面目に答えたが「僕あちょっと失敬するよ、じき帰るから猫にでもからかっていてくれ給え」と迷亭の返事も待たず風然《ふうぜん》と出て行く。
計らずも迷亭先生の接待掛りを命ぜられて無愛想《ぶあいそ》な顔もしていられないから、ニャーニャーと愛嬌《あいきょう》を振り蒔《ま》いて膝《ひざ》の上へ這《は》い上《あが》って見た。すると迷亭は「イヨー大分《だいぶ》肥《ふと》ったな、どれ」と無作法《ぶさほう》にも吾輩の襟
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