sきましたら、門の内で下女と羽根を突いていましたから病気は全快したものと見えます」
主人は最前から沈思の体《てい》であったが、この時ようやく口を開いて、「僕にもある」と負けぬ気を出す。
「あるって、何があるんだい」迷亭の眼中に主人などは無論ない。
「僕のも去年の暮の事だ」
「みんな去年の暮は暗合《あんごう》で妙ですな」と寒月が笑う。欠けた前歯のうちに空也餅《くうやもち》が着いている。
「やはり同日同刻じゃないか」と迷亭がまぜ返す。
「いや日は違うようだ。何でも二十日《はつか》頃だよ。細君が御歳暮の代りに摂津大掾《せっつだいじょう》を聞かしてくれろと云うから、連れて行ってやらん事もないが今日の語り物は何だと聞いたら、細君が新聞を参考して鰻谷《うなぎだに》だと云うのさ。鰻谷は嫌いだから今日はよそうとその日はやめにした。翌日になると細君がまた新聞を持って来て今日は堀川《ほりかわ》だからいいでしょうと云う。堀川は三味線もので賑やかなばかりで実《み》がないからよそうと云うと、細君は不平な顔をして引き下がった。その翌日になると細君が云うには今日は三十三間堂です、私は是非|摂津《せっつ》の三十三間堂が聞きたい。あなたは三十三間堂も御嫌いか知らないが、私に聞かせるのだからいっしょに行って下すっても宜《い》いでしょうと手詰《てづめ》の談判をする。御前がそんなに行きたいなら行っても宜《よ》ろしい、しかし一世一代と云うので大変な大入だから到底《とうてい》突懸《つっか》けに行ったって這入《はい》れる気遣《きづか》いはない。元来ああ云う場所へ行くには茶屋と云うものが在《あ》ってそれと交渉して相当の席を予約するのが正当の手続きだから、それを踏まないで常規を脱した事をするのはよくない、残念だが今日はやめようと云うと、細君は凄《すご》い眼付をして、私は女ですからそんなむずかしい手続きなんか知りませんが、大原のお母あさんも、鈴木の君代さんも正当の手続きを踏まないで立派に聞いて来たんですから、いくらあなたが教師だからって、そう手数《てすう》のかかる見物をしないでもすみましょう、あなたはあんまりだと泣くような声を出す。それじゃ駄目でもまあ行く事にしよう。晩飯をくって電車で行こうと降参をすると、行くなら四時までに向うへ着くようにしなくっちゃいけません、そんなぐずぐずしてはいられませんと急に勢がいい。なぜ四時までに行かなくては駄目なんだと聞き返すと、そのくらい早く行って場所をとらなくちゃ這入れないからですと鈴木の君代さんから教えられた通りを述べる。それじゃ四時を過ぎればもう駄目なんだねと念を押して見たら、ええ駄目ですともと答える。すると君不思議な事にはその時から急に悪寒《おかん》がし出してね」
「奥さんがですか」と寒月が聞く。
「なに細君はぴんぴんしていらあね。僕がさ。何だか穴の明いた風船玉のように一度に萎縮《いしゅく》する感じが起ると思うと、もう眼がぐらぐらして動けなくなった」
「急病だね」と迷亭が註釈を加える。
「ああ困った事になった。細君が年に一度の願だから是非|叶《かな》えてやりたい。平生《いつも》叱りつけたり、口を聞かなかったり、身上《しんしょう》の苦労をさせたり、小供の世話をさせたりするばかりで何一つ洒掃薪水《さいそうしんすい》の労に酬《むく》いた事はない。今日は幸い時間もある、嚢中《のうちゅう》には四五枚の堵物《とぶつ》もある。連れて行けば行かれる。細君も行きたいだろう、僕も連れて行ってやりたい。是非連れて行ってやりたいがこう悪寒がして眼がくらんでは電車へ乗るどころか、靴脱《くつぬぎ》へ降りる事も出来ない。ああ気の毒だ気の毒だと思うとなお悪寒がしてなお眼がくらんでくる。早く医者に見てもらって服薬でもしたら四時前には全快するだろうと、それから細君と相談をして甘木《あまき》医学士を迎いにやると生憎《あいにく》昨夜《ゆうべ》が当番でまだ大学から帰らない。二時頃には御帰りになりますから、帰り次第すぐ上げますと云う返事である。困ったなあ、今|杏仁水《きょうにんすい》でも飲めば四時前にはきっと癒《なお》るに極《きま》っているんだが、運の悪い時には何事も思うように行かんもので、たまさか妻君の喜ぶ笑顔を見て楽もうと云う予算も、がらりと外《はず》れそうになって来る。細君は恨《うら》めしい顔付をして、到底《とうてい》いらっしゃれませんかと聞く。行くよ必ず行くよ。四時までにはきっと直って見せるから安心しているがいい。早く顔でも洗って着物でも着換えて待っているがいい、と口では云ったようなものの胸中は無限の感慨である。悪寒はますます劇《はげ》しくなる、眼はいよいよぐらぐらする。もしや四時までに全快して約束を履行《りこう》する事が出来なかったら、気の狭い女の事だから何をするかも知
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