ヘまたいつの間《ま》に洋行なさったかと思って、つい真面目に拝聴していました。それに見て来たようになめくじ[#「なめくじ」に傍点]のソップの御話や蛙《かえる》のシチュの形容をなさるものですから」「そりゃ誰ゥに聞いたんでしょう、うそをつく事はなかなか名人ですからね」「どうもそうのようで」と花瓶《かびん》の水仙を眺める。少しく残念の気色《けしき》にも取られる。「じゃ趣向というのは、それなんですね」と主人が念を押す。「いえそれはほんの冒頭なので、本論はこれからなのです」「ふーん」と主人は好奇的な感投詞を挟《はさ》む。「それから、とてもなめくじ[#「なめくじ」に傍点]や蛙は食おうっても食えやしないから、まあトチメンボー[#「トチメンボー」に傍点]くらいなところで負けとく事にしようじゃないか君と御相談なさるものですから、私はつい何の気なしに、それがいいでしょう、といってしまったので」「へー、とちめんぼうは妙ですな」「ええ全く妙なのですが、先生があまり真面目だものですから、つい気がつきませんでした」とあたかも主人に向って麁忽《そこつ》を詫《わ》びているように見える。「それからどうしました」と主人は無頓着に聞く。客の謝罪には一向同情を表しておらん。「それからボイにおいトチメンボー[#「トチメンボー」に傍点]を二人前《ににんまえ》持って来いというと、ボイがメンチボー[#「メンチボー」に傍点]ですかと聞き直しましたが、先生はますます真面目《まじめ》な貌《かお》でメンチボー[#「メンチボー」に傍点]じゃないトチメンボー[#「トチメンボー」に傍点]だと訂正されました」「なある。そのトチメンボー[#「トチメンボー」に傍点]という料理は一体あるんですか」「さあ私も少しおかしいとは思いましたがいかにも先生が沈着であるし、その上あの通りの西洋通でいらっしゃるし、ことにその時は洋行なすったものと信じ切っていたものですから、私も口を添えてトチメンボー[#「トチメンボー」に傍点]だトチメンボー[#「トチメンボー」に傍点]だとボイに教えてやりました」「ボイはどうしました」「ボイがね、今考えると実に滑稽《こっけい》なんですがね、しばらく思案していましてね、はなはだ御気の毒様ですが今日はトチメンボー[#「トチメンボー」に傍点]は御生憎様《おあいにくさま》でメンチボー[#「メンチボー」に傍点]なら御二人前《おふ
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