る。もし諸君がかかる際に冷淡以上を望んだら、それこそ人間を買い被《かぶ》ったと云わなければならない。正直ですら払底《ふってい》な世にそれ以上を予期するのは、馬琴《ばきん》の小説から志乃《しの》や小文吾《こぶんご》が抜けだして、向う三軒両隣へ八犬伝《はっけんでん》が引き越した時でなくては、あてにならない無理な注文である。主人はまずこのくらいにして、氓ノは茶の間で笑ってる女連《おんなれん》に取りかかるが、これは主人の冷淡を一歩|向《むこう》へ跨《また》いで、滑稽《こっけい》の領分に躍《おど》り込んで嬉しがっている。この女連には武右衛門君が頭痛に病んでいる艶書事件が、仏陀《ぶっだ》の福音《ふくいん》のごとくありがたく思われる。理由はないただありがたい。強いて解剖すれば武右衛門君が困るのがありがたいのである。諸君女に向って聞いて御覧、「あなたは人が困るのを面白がって笑いますか」と。聞かれた人はこの問を呈出した者を馬鹿と云うだろう、馬鹿と云わなければ、わざとこんな問をかけて淑女の品性を侮辱したと云うだろう。侮辱したと思うのは事実かも知れないが、人の困るのを笑うのも事実である。であるとすれば、これから私《わたし》の品性を侮辱するような事を自分でしてお目にかけますから、何とか云っちゃいやよと断わるのと一般である。僕は泥棒をする。しかしけっして不道徳と云ってはならん。もし不道徳だなどと云えば僕の顔へ泥を塗ったものである。僕を侮辱したものである。と主張するようなものだ。女はなかなか利口だ、考えに筋道が立っている。いやしくも人間に生れる以上は踏んだり、蹴《け》たり、どやされたりして、しかも人が振りむきもせぬ時、平気でいる覚悟が必用であるのみならず、唾を吐きかけられ、糞をたれかけられた上に、大きな声で笑われるのを快よく思わなくてはならない。それでなくてはかように利口な女と名のつくものと交際は出来ない。武右衛門先生もちょっとしたはずみから、とんだ間違をして大《おおい》に恐れ入ってはいるようなものの、かように恐れ入ってるものを蔭で笑うのは失敬だとくらいは思うかも知れないが、それは年が行かない稚気《ちき》というもので、人が失礼をした時に怒《おこ》るのを気が小さいと先方では名づけるそうだから、そう云われるのがいやならおとなしくするがよろしい。最後に武右衛門君の心行きをちょっと紹介する。君は心配の
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