なか自信家だから容易に姉の云う事なんか聞きそうにしない。「いやーよ、ばぶ」と云いながら雑巾を引っ張り返した。このばぶ[#「ばぶ」に傍点]なる語はいかなる意義で、いかなる語源を有しているか、誰も知ってるものがない。ただこの坊やちゃんが癇癪《かんしゃく》を起した時に折々ご使用になるばかりだ。雑巾はこの時姉の手と、坊やちゃんの手で左右に引っ張られるから、水を含んだ真中からぽたぽた雫《しずく》が垂《た》れて、容赦なく坊やの足にかかる、足だけなら我慢するが膝のあたりがしたたか濡れる。坊やはこれでも元禄《げんろく》を着ているのである。元禄とは何の事だとだんだん聞いて見ると、中形《ちゅうがた》の模様なら何でも元禄だそうだ。一体だれに教わって来たものか分らない。「坊やちゃん、元禄が濡れるから御よしなさい、ね」と姉が洒落《しゃ》れた事を云う。その癖《くせ》この姉はついこの間まで元禄と双六《すごろく》とを間違えていた物識《ものし》りである。
元禄で思い出したからついでに喋舌《しゃべ》ってしまうが、この子供の言葉ちがいをやる事は夥《おびただ》しいもので、折々人を馬鹿にしたような間違を云ってる。火事で茸《きのこ》が飛んで来たり、御茶《おちゃ》の味噌《みそ》の女学校へ行ったり、恵比寿《えびす》、台所《だいどこ》と並べたり、或る時などは「わたしゃ藁店《わらだな》の子じゃないわ」と云うから、よくよく聞き糺《ただ》して見ると裏店《うらだな》と藁店を混同していたりする。主人はこんな間違を聞くたびに笑っているが、自分が学校へ出て英語を教える時などは、これよりも滑稽な誤謬《ごびゅう》を真面目になって、生徒に聞かせるのだろう。
坊やは――当人は坊やとは云わない。いつでも坊ば[#「坊ば」に傍点]と云う――元禄が濡れたのを見て「元《げん》どこ[#「どこ」に傍点]がべたい[#「べたい」に傍点]」と云って泣き出した。元禄が冷たくては大変だから、御三が台所から飛び出して来て、雑巾を取上げて着物を拭《ふ》いてやる。この騒動中比較的静かであったのは、次女のすん子嬢である。すん子嬢は向うむきになって棚の上からころがり落ちた、お白粉《しろい》の瓶《びん》をあけて、しきりに御化粧を施《ほどこ》している。第一に突っ込んだ指をもって鼻の頭をキューと撫《な》でたから竪《たて》に一本白い筋が通って、鼻のありかがいささか分明《ぶん
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