「がこうなった日にゃあ構うものか、何でも餅の魔が落ちるまでやるべしという意気込みで無茶苦茶に顔中引っ掻《か》き廻す。前足の運動が猛烈なのでややともすると中心を失って倒れかかる。倒れかかるたびに後足で調子をとらなくてはならぬから、一つ所にいる訳にも行かんので、台所中あちら、こちらと飛んで廻る。我ながらよくこんなに器用に起《た》っていられたものだと思う。第三の真理が驀地《ばくち》に現前《げんぜん》する。「危きに臨《のぞ》めば平常なし能《あた》わざるところのものを為《な》し能う。之《これ》を天祐《てんゆう》という」幸《さいわい》に天祐を享《う》けたる吾輩が一生懸命餅の魔と戦っていると、何だか足音がして奥より人が来るような気合《けわい》である。ここで人に来られては大変だと思って、いよいよ躍起《やっき》となって台所をかけ廻る。足音はだんだん近付いてくる。ああ残念だが天祐が少し足りない。とうとう小供に見付けられた。「あら猫が御雑煮を食べて踊を踊っている」と大きな声をする。この声を第一に聞きつけたのが御三である。羽根も羽子板も打ち遣《や》って勝手から「あらまあ」と飛込んで来る。細君は縮緬《ちりめん》の紋付で「いやな猫ねえ」と仰せられる。主人さえ書斎から出て来て「この馬鹿野郎」といった。面白い面白いと云うのは小供ばかりである。そうしてみんな申し合せたようにげらげら笑っている。腹は立つ、苦しくはある、踊はやめる訳にゆかぬ、弱った。ようやく笑いがやみそうになったら、五つになる女の子が「御かあ様、猫も随分ね」といったので狂瀾《きょうらん》を既倒《きとう》に何とかするという勢でまた大変笑われた。人間の同情に乏しい実行も大分《だいぶ》見聞《けんもん》したが、この時ほど恨《うら》めしく感じた事はなかった。ついに天祐もどっかへ消え失《う》せて、在来の通り四《よ》つ這《ばい》になって、眼を白黒するの醜態を演ずるまでに閉口した。さすが見殺しにするのも気の毒と見えて「まあ餅をとってやれ」と主人が御三に命ずる。御三はもっと踊らせようじゃありませんかという眼付で細君を見る。細君は踊は見たいが、殺してまで見る気はないのでだまっている。「取ってやらんと死んでしまう、早くとってやれ」と主人は再び下女を顧《かえり》みる。御三《おさん》は御馳走を半分食べかけて夢から起された時のように、気のない顔をして餅をつかんでぐ
前へ 次へ
全375ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング