イ梯《かいてい》にもなろう。たのもしい男だ。これも哲学者からやり込められた結果かも知れぬ。
かように考えながらなお様子をうかがっていると、それとも知らぬ主人は思う存分あかんべえ[#「あかんべえ」に傍点]をしたあとで「大分《だいぶ》充血しているようだ。やっぱり慢性結膜炎だ」と言いながら、人さし指の横つらでぐいぐい充血した瞼《まぶた》をこすり始めた。大方《おおかた》痒《かゆ》いのだろうけれども、たださえあんなに赤くなっているものを、こう擦《こす》ってはたまるまい。遠からぬうちに塩鯛《しおだい》の眼玉のごとく腐爛《ふらん》するにきまってる。やがて眼を開《ひら》いて鏡に向ったところを見ると、果せるかなどんよりとして北国の冬空のように曇っていた。もっとも平常《ふだん》からあまり晴れ晴れしい眼ではない。誇大な形容詞を用いると混沌《こんとん》として黒眼と白眼が剖判《ほうはん》しないくらい漠然《ばくぜん》としている。彼の精神が朦朧《もうろう》として不得要領|底《てい》に一貫しているごとく、彼の眼も曖々然《あいあいぜん》昧々然《まいまいぜん》として長《とこし》えに眼窩《がんか》の奥に漂《ただよ》うている。これは胎毒《たいどく》のためだとも云うし、あるいは疱瘡《ほうそう》の余波だとも解釈されて、小さい時分はだいぶ柳の虫や赤蛙の厄介になった事もあるそうだが、せっかく母親の丹精も、あるにその甲斐《かい》あらばこそ、今日《こんにち》まで生れた当時のままでぼんやりしている。吾輩ひそかに思うにこの状態は決して胎毒や疱瘡のためではない。彼の眼玉がかように晦渋溷濁《かいじゅうこんだく》の悲境に彷徨《ほうこう》しているのは、とりも直さず彼の頭脳が不透不明《ふとうふめい》の実質から構成されていて、その作用が暗憺溟濛《あんたんめいもう》の極に達しているから、自然とこれが形体の上にあらわれて、知らぬ母親にいらぬ心配を掛けたんだろう。煙たって火あるを知り、まなこ濁って愚《ぐ》なるを証す。して見ると彼の眼は彼の心の象徴で、彼の心は天保銭《てんぽうせん》のごとく穴があいているから、彼の眼もまた天保銭と同じく、大きな割合に通用しないに違ない。
今度は髯《ひげ》をねじり始めた。元来から行儀のよくない髯でみんな思い思いの姿勢をとって生《は》えている。いくら個人主義が流行《はや》る世の中だって、こう町々《まちまち》に
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