セてん》のごとく逃げて行く。主人はぬすっとう[#「ぬすっとう」に傍点]が大《おおい》に成功したので、またもぬすっとう[#「ぬすっとう」に傍点]と高く叫びながら追いかけて行く。しかしかの敵に追いつくためには主人の方で垣を越さなければならん。深入りをすれば主人|自《みずか》らが泥棒になるはずである。前《ぜん》申す通り主人は立派なる逆上家である。こう勢《いきお「》に乗じてぬすっとう[#「ぬすっとう」に傍点]を追い懸ける以上は、夫子《ふうし》自身がぬすっとう[#「ぬすっとう」に傍点]に成っても追い懸けるつもりと見えて、引き返す気色《けしき》もなく垣の根元まで進んだ。今一歩で彼はぬすっとう[#「ぬすっとう」に傍点]の領分に入《はい》らなければならんと云う間際《まぎわ》に、敵軍の中から、薄い髯《ひげ》を勢なく生《は》やした将官がのこのこと出馬して来た。両人《ふたり》は垣を境に何か談判している。聞いて見るとこんなつまらない議論である。
「あれは本校の生徒です」
「生徒たるべきものが、何で他《ひと》の邸内へ侵入するのですか」
「いやボールがつい飛んだものですから」
「なぜ断って、取りに来ないのですか」
「これから善《よ》く注意します」
「そんなら、よろしい」
竜騰虎闘《りゅうとうことう》の壮観があるだろうと予期した交渉はかくのごとく散文的なる談判をもって無事に迅速に結了した。主人の壮《さか》んなるはただ意気込みだけである。いざとなると、いつでもこれでおしまいだ。あたかも吾輩が虎の夢から急に猫に返ったような観がある。吾輩の小事件と云うのは即《すなわ》ちこれである。小事件を記述したあとには、順序として是非大事件を話さなければならん。
主人は座敷の障子を開いて腹這《はらばい》になって、何か思案している。恐らく敵に対して防禦策《ぼうぎょさく》を講じているのだろう。落雲館は授業中と見えて、運動場は存外静かである。ただ校舎の一室で、倫理の講義をしているのが手に取るように聞える。朗々たる音声でなかなかうまく述べ立てているのを聴くと、全く昨日《きのう》敵中から出馬して談判の衝《しょう》に当った将軍である。
「……で公徳と云うものは大切な事で、あちらへ行って見ると、仏蘭西《フランス》でも独逸《ドイツ》でも英吉利《イギリス》でも、どこへ行っても、この公徳の行われておらん国はない。またどんな下等な者
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