烽フは決してつけない。つける必要がないからである。主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等|猫属《ねこぞく》に至ると行住坐臥《ぎょうじゅうざが》、行屎送尿《こうしそうにょう》ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数《てかず》をして、己《おの》れの真面目《しんめんもく》を保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら椽側に寝ているまでの事さ。
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神田の某亭で晩餐《ばんさん》を食う。久し振りで正宗を二三杯飲んだら、今朝は胃の具合が大変いい。胃弱には晩酌が一番だと思う。タカジヤスターゼは無論いかん。誰が何と云っても駄目だ。どうしたって利《き》かないものは利かないのだ。
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 無暗《むやみ》にタカジヤスターゼを攻撃する。独りで喧嘩をしているようだ。今朝の肝癪がちょっとここへ尾を出す。人間の日記の本色はこう云う辺《へん》に存するのかも知れない。
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せんだって○○は朝飯《あさめし》を廃すると胃がよくなると云うたから二三日《にさんち》朝飯をやめて見たが腹がぐうぐう鳴るばかりで功能はない。△△は是非|香《こう》の物《もの》を断《た》てと忠告した。彼の説によるとすべて胃病の源因は漬物にある。漬物さえ断てば胃病の源を涸《か》らす訳だから本復は疑なしという論法であった。それから一週間ばかり香の物に箸《はし》を触れなかったが別段の験《げん》も見えなかったから近頃はまた食い出した。××に聞くとそれは按腹《あんぷく》揉療治《もみりょうじ》に限る。ただし普通のではゆかぬ。皆川流《みながわりゅう》という古流な揉《も》み方で一二度やらせれば大抵の胃病は根治出来る。安井息軒《やすいそっけん》も大変この按摩術《あんまじゅつ》を愛していた。坂本竜馬《さかもとりょうま》のような豪傑でも時々は治療をうけたと云うから、早速|上根岸《かみねぎし》まで出掛けて揉《も》まして見た。ところが骨を揉《も》まなければ癒《なお》らぬとか、臓腑の位置を一度|顛倒《てんとう》しなければ根治がしにくいとかいって、それはそれは残酷な揉《も》み方をやる。後で身体が綿のようになって昏睡病《こんすいびょう》にかかったような心持ちがしたので、一度で閉口してやめにした。A君は是非固形体
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