つきじ》へ打っちゃられに行った猫が無事に帰宅せん間は無暗《むやみ》に飛び込む訳には行かん。進化の法則で吾等猫輩の機能が狂瀾怒濤《きょうらんどとう》に対して適当の抵抗力を生ずるに至るまでは――換言すれば猫が死[#「死」に傍点]んだと云う代りに猫が上[#「上」に傍点]がったと云う語が一般に使用せらるるまでは――容易に海水浴は出来ん。
 海水浴は追って実行する事にして、運動だけは取りあえずやる事に取り極《き》めた。どうも二十世紀の今日《こんにち》運動せんのはいかにも貧民のようで人聞きがわるい。運動をせんと、運動せんのではない。運動が出来んのである、運動をする時間がないのである、余裕がないのだと鑑定される。昔は運動したものが折助《おりすけ》と笑われたごとく、今では運動をせぬ者が下等と見做《みな》されている。吾人の評価は時と場合に応じ吾輩の眼玉のごとく変化する。吾輩の眼玉はただ小さくなったり大きくなったりするばかりだが、人間の品隲《ひんしつ》とくると真逆《まっさ》かさまにひっくり返る。ひっくり返っても差《さ》し支《つか》えはない。物には両面がある、両端《りょうたん》がある。両端を叩《たた》いて黒白《こくびゃく》の変化を同一物の上に起こすところが人間の融通のきくところである。方寸[#「方寸」に傍点]を逆《さ》かさまにして見ると寸方[#「寸方」に傍点]となるところに愛嬌《あいきょう》がある。天《あま》の橋立《はしだて》を股倉《またぐら》から覗《のぞ》いて見るとまた格別な趣《おもむき》が出る。セクスピヤも千古万古セクスピヤではつまらない。偶《たま》には股倉からハムレットを見て、君こりゃ駄目だよくらいに云う者がないと、文界も進歩しないだろう。だから運動をわるく云った連中が急に運動がしたくなって、女までがラケットを持って往来をあるき廻ったって一向《いっこう》不思議はない。ただ猫が運動するのを利《き》いた風だなどと笑いさえしなければよい。さて吾輩の運動はいかなる種類の運動かと不審を抱《いだ》く者があるかも知れんから一応説明しようと思う。御承知のごとく不幸にして機械を持つ事が出来ん。だからボールもバットも取り扱い方に困窮する。次には金がないから買う訳《わけ》に行かない。この二つの源因からして吾輩の選んだ運動は一文《いちもん》いらず器械なしと名づくべき種類に属する者と思う。そんなら、のそのそ
前へ 次へ
全375ページ中188ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング