れらの凡眼は皆形を見て心を見ざる不具なる視覚を有して生れついた者で、――しかも彼《か》の多々良三平君のごときは形を見て心を見ざる第一流の人物であるから、この三平君が吾輩を目して乾屎※[#「木+厥」、第3水準1−86−15]《かんしけつ》同等に心得るのももチともだが、恨むらくは少しく古今の書籍を読んで、やや事物の真相を解し得たる主人までが、浅薄なる三平君に一も二もなく同意して、猫鍋《ねこなべ》に故障を挟《さしはさ》む景色《けしき》のない事である。しかし一歩退いて考えて見ると、かくまでに彼等が吾輩を軽蔑《けいべつ》するのも、あながち無理ではない。大声は俚耳《りじ》に入らず、陽春白雪の詩には和するもの少なしの喩《たとえ》も古い昔からある事だ。形体以外の活動を見る能《あた》わざる者に向って己霊《これい》の光輝を見よと強《し》ゆるは、坊主に髪を結《い》えと逼《せま》るがごとく、鮪《まぐろ》に演説をして見ろと云うがごとく、電鉄に脱線を要求するがごとく、主人に辞職を勧告するごとく、三平に金の事を考えるなと云うがごときものである。必竟《ひっきょう》無理な注文に過ぎん。しかしながら猫といえども社会的動物である。社会的動物である以上はいかに高く自《みずか》ら標置するとも、或る程度までは社会と調和して行かねばならん。主人や細君や乃至《ないし》御《お》さん、三平|連《づれ》が吾輩を吾輩相当に評価してくれんのは残念ながら致し方がないとして、不明の結果皮を剥《は》いで三味線屋に売り飛ばし、肉を刻んで多々良君の膳に上《のぼ》すような無分別をやられては由々《ゆゆ》しき大事である。吾輩は頭をもって活動すべき天命を受けてこの娑婆《しゃば》に出現したほどの古今来《ここんらい》の猫であれば、非常に大事な身体である。千金の子《し》は堂陲《どうすい》に坐せずとの諺《ことわざ》もある事なれば、好んで超邁《ちょうまい》を宗《そう》として、徒《いたず》らに吾身の危険を求むるのは単に自己の災《わざわい》なるのみならず、また大いに天意に背《そむ》く訳である。猛虎も動物園に入れば糞豚《ふんとん》の隣りに居を占め、鴻雁《こうがん》も鳥屋に生擒《いけど》らるれば雛鶏《すうけい》と俎《まないた》を同《おな》じゅうす。庸人《ようじん》と相互《あいご》する以上は下《くだ》って庸猫《ようびょう》と化せざるべからず。庸猫たらんとすれば
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