》でもあろう。
 こう考えると急に三人の談話が面白くなくなったので、三毛子の様子でも見て来《き》ようかと二絃琴《にげんきん》の御師匠さんの庭口へ廻る。門松《かどまつ》注目飾《しめかざ》りはすでに取り払われて正月も早《は》や十日となったが、うららかな春日《はるび》は一流れの雲も見えぬ深き空より四海天下を一度に照らして、十坪に足らぬ庭の面《おも》も元日の曙光《しょこう》を受けた時より鮮《あざや》かな活気を呈している。椽側に座蒲団《ざぶとん》が一つあって人影も見えず、障子も立て切ってあるのは御師匠さんは湯にでも行ったのか知らん。御師匠さんは留守でも構わんが、三毛子は少しは宜《い》い方か、それが気掛りである。ひっそりして人の気合《けわい》もしないから、泥足のまま椽側《えんがわ》へ上《あが》って座蒲団の真中へ寝転《ねこ》ろんで見るといい心持ちだ。ついうとうととして、三毛子の事も忘れてうたた寝をしていると、急に障子のうちで人声がする。
「御苦労だった。出来たかえ」御師匠さんはやはり留守ではなかったのだ。
「はい遅くなりまして、仏師屋《ぶっしや》へ参りましたらちょうど出来上ったところだと申しまして」「どれお見せなさい。ああ奇麗に出来た、これで三毛も浮かばれましょう。金《きん》は剥《は》げる事はあるまいね」「ええ念を押しましたら上等を使ったからこれなら人間の位牌《いはい》よりも持つと申しておりました。……それから猫誉信女《みょうよしんにょ》の誉の字は崩《くず》した方が恰好《かっこう》がいいから少し劃《かく》を易《か》えたと申しました」「どれどれ早速御仏壇へ上げて御線香でもあげましょう」
 三毛子は、どうかしたのかな、何だか様子が変だと蒲団の上へ立ち上る。チーン南無猫誉信女《なむみょうよしんにょ》、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》南無阿弥陀仏と御師匠さんの声がする。
「御前も回向《えこう》をしておやりなさい」
 チーン南無猫誉信女南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と今度は下女の声がする。吾輩は急に動悸《どうき》がして来た。座蒲団の上に立ったまま、木彫《きぼり》の猫のように眼も動かさない。
「ほんとに残念な事を致しましたね。始めはちょいと風邪《かぜ》を引いたんでございましょうがねえ」「甘木さんが薬でも下さると、よかったかも知れないよ」「一体あの甘木さんが悪うございますよ、あんまり三毛を馬鹿にし過ぎ
前へ 次へ
全375ページ中60ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング