一つの方はこれとは反対に勢力の消耗をできるだけ防ごうとする活動なり工夫《くふう》なりだから前のに対して消極的と申したのであります。この二つの互いに喰違って反《そり》の合わないような活動が入り乱れたりコンガラカッたりして開化と云うものが出来上るのであります。これでもまだ抽象的でよくお分りにならないかも知れませんが、もう少し進めば私の意味は自《おのずか》ら明暸《めいりょう》になるだろうと信じます。元来人間の命とか生《せい》とか称するものは解釈次第でいろいろな意味にもなりまたむずかしくもなりますが要するに前《ぜん》申したごとく活力の示現とか進行とか持続とか評するよりほかに致し方のない者である以上、この活力が外界の刺戟《しげき》に対してどう反応するかという点を細かに観察すればそれで吾人人類の生活状態もほぼ了解ができるような訳で、その生活状態の多人数の集合して過去から今日に及んだものがいわゆる開化にほかならないのは今さら申上げるまでもありますまい。さて吾々《われわれ》の活力が外界の刺戟《しげき》に反応する方法は刺戟の複雑である以上|固《もと》より多趣多様千差万別に違ないが、要するに刺戟の来るたびに吾が活力をなるべく制限節約してできるだけ使うまいとする工夫と、また自ら進んで適意の刺戟を求め能《あと》うだけの活力を這裏《しゃり》に消耗して快を取る手段との二つに帰着してしまうよう私は考えているのであります。で前のを便宜《べんぎ》のため活力節約の行動と名づけ後者をかりに活力消耗の趣向とでも名づけておきましょうが、この活力節約の行動はどんな場合に起るかと云えば現代の吾々が普通用いる義務という言葉を冠して形容すべき性質の刺戟《しげき》に対して起るのであります。従来の徳育法及び現今とても教育上では好んで義務を果す敢為邁往《かんいまいおう》の気象《きしょう》を奨励するようですがこれは道徳上の話で道徳上しかなくてはならぬもしくはしかする方が社会の幸福だと云うまでで、人間活力の示現を観察してその組織の経緯一つを司《つかさ》どる大事実から云えばどうしても今私が申し上げたように解釈するよりほか仕方がないのであります。吾々もお互に義務は尽さなければならんものと始終思い、また義務を尽した後は大変心持が好いのであるが、深くその裏面に立ち入って内省して見ると、願《ねがわ》くはこの義務の束縛を免《まぬ》かれて早く自由になりたい、人から強《し》いられてやむをえずする仕事はできるだけ分量を圧搾《あっさく》して手軽に済ましたいという根性が常に胸の中《うち》につけまとっている。その根性が取《とり》も直《なお》さず活力節約の工夫《くふう》となって開化なるものの一大原動力を構成するのであります。
かく消極的に活力を節約しようとする奮闘に対して一方ではまた積極的に活力を任意随所に消耗しようという精神がまた開化の一半を組み立てている。その発現の方法もまた世が進めば進むほど複雑になるのは当然であるが、これをごく約《つづ》めてどんな方面に現われるかと説明すればまず普通の言葉で道楽という名のつく刺戟《しげき》に対し起るものだとしてしまえば一番早分りであります。道楽と云えば誰も知っている。釣魚《つり》をするとか玉を突くとか、碁《ご》を打つとか、または鉄砲を担《かつ》いで猟に行くとか、いろいろのものがありましょう。これらは説明するがものはないことごとく自から進んで強《し》いられざるに自分の活力を消耗して嬉《うれ》しがる方であります。なお進んではこの精神が文学にもなり科学にもなりまたは哲学にもなるので、ちょっと見るとはなはだむずかしげなものも皆道楽の発現に過ぎないのであります。
この二様の精神すなわち義務の刺戟に対する反応としての消極的な活力節約とまた道楽の刺戟に対する反応としての積極的な活力消耗とが互に並び進んで、コンガラカッて変化して行って、この複雑|極《きわま》りなき開化と云うものができるのだと私は考えています。その結果は現に吾々が生息している社会の実況を目撃すればすぐ分ります。活力節約の方から云えばできるだけ労働を少なくしてなるべくわずかな時間に多くの働きをしようしようと工夫する。その工夫が積《つも》り積って汽車汽船はもちろん電信電話自動車大変なものになりますが、元を糺《ただ》せば面倒を避けたい横着心の発達した便法に過ぎないでしょう。この和歌山市から和歌の浦までちょっと使いに行って来いと言われた時に、出来得るなら誰しも御免蒙《ごめんこうむ》りたい。がどうしても行かなければならないとすればなるべく楽に行きたい、そうして早く帰りたい。できるだけ身体《からだ》は使いたくない。そこで人力車もできなければならない訳になります。その上に贅沢《ぜいたく》を云えば自転車にするでしょう。なおわがままを云い募《つの》ればこれが電車にも変化し自動車または飛行器にも化けなければならなくなるのは自然の数であります。これに反して電車や電話の設備があるにしても是非今日は向うまで歩いて行きたいという道楽心の増長する日も年に二度や三度は起らないとも限りません。好んで身体を使って疲労を求める。吾々が毎日やる散歩という贅沢も要するにこの活力消耗の部類に属する積極的な命の取扱方の一部分なのであります。がこの道楽気の増長した時に幸に行って来いという命令が下ればちょうど好いが、まあたいていはそう旨《うま》くは行かない。云いつかった時は多く歩きたくない時である。だから歩かないで用を足す工夫《くふう》をしなければならない。となると勢い訪問が郵便になり、郵便が電報になり、その電報がまた電話になる理窟《りくつ》です。つまるところは人間生存上の必要上何か仕事をしなければならないのを、なろう事ならしないで用を足してそうして満足に生きていたいというわがままな了簡《りょうけん》、と申しましょうかまたはそうそう身を粉《こ》にしてまで働いて生きているんじゃ割に合わない、馬鹿にするない冗談《じょうだん》じゃねえという発憤の結果が怪物のように辣腕《らつわん》な器械力と豹変《ひょうへん》したのだと見れば差支《さしつかえ》ないでしょう。
この怪物の力で距離が縮《ちぢ》まる、時間が縮まる、手数が省《はぶ》ける、すべて義務的の労力が最少低額に切りつめられた上にまた切りつめられてどこまで押して行くか分らないうちに、彼の反対の活力消耗と名づけておいた道楽|根性《こんじょう》の方もまた自由わがままのできる限りを尽して、これまた瞬時の絶間なく天然自然と発達しつつとめどもなく前進するのである。この道楽根性の発展も道徳家に言わせると怪《け》しからんとか言いましょう。がそれは徳義上の問題で事実上の問題にはなりません。事実の大局から云えば活力を吾好むところに消費するというこの工夫精神は二六時中休みっこなく働いて、休みっこなく発展しています。元々社会があればこそ義務的の行動を余儀なくされる人間も放り出しておけばどこまでも自我本位に立脚するのは当然だから自分の好《す》いた刺戟《しげき》に精神なり身体なりを消費しようとするのは致し方もない仕儀である。もっとも好いた刺戟に反応して自由に活力を消耗すると云ったって何も悪い事をするとは限らない。道楽だって女を相手にするばかりが道楽じゃない。好きな真似《まね》をするとは開化の許す限りのあらゆる方面に亘《わた》っての話であります。自分が画がかきたいと思えばできるだけ画ばかりかこうとする。本が読みたければ差支ない以上本ばかり読もうとする。あるいは学問が好《すき》だと云って、親の心も知らないで、書斎へ入って青くなっている子息《むすこ》がある。傍《はた》から見れば何の事か分らない。親父が無理算段の学資を工面《くめん》して卒業の上は月給でも取らせて早く隠居でもしたいと思っているのに、子供の方では活計《くらし》の方なんかまるで無頓着《むとんじゃく》で、ただ天地の真理を発見したいなどと太平楽を並べて机に靠《もた》れて苦《にが》り切っているのもある。親は生計のための修業と考えているのに子供は道楽のための学問とのみ合点《がてん》している。こういうような訳で道楽の活力はいかなる道徳学者も杜絶《とぜつ》する訳にいかない。現にその発現は世の中にどんな形になって、どんなに現れているかと云うことは、この競争|劇甚《げきじん》の世に道楽なんどとてんでその存在の権利を承認しないほど家業に励精《れいせい》な人でも少し注意されれば肯定しない訳に行かなくなるでしょう。私は昨晩和歌の浦へ泊りましたが、和歌の浦へ行って見ると、さがり松だの権現様《ごんげんさま》だの紀三井寺だのいろいろのものがありますが、その中に東洋第一海抜二百尺と書いたエレヴェーターが宿の裏から小高い石山の巓《いただき》へ絶えず見物を上げたり下げたりしているのを見ました。実は私も動物園の熊のようにあの鉄の格子《こうし》の檻《おり》の中に入って山の上へ上げられた一人であります。があれは生活上別段必要のある場所にある訳でもなければまたそれほど大切な器械でもない、まあ物数奇《ものずき》である。ただ上ったり下ったりするだけである。疑もなく道楽心の発現で、好奇心兼広告欲も手伝っているかも知れないが、まあ活計向《くらしむき》とは関係の少ないものです。これは一例ですが開化が進むにつれてこういう贅沢《ぜいたく》なものの数が殖《ふ》えてくるのは誰でも認識しない訳に行かないでしょう。のみならずこの贅沢が日に増し細かくなる。大きなものの中に輪が幾つもできて漏斗《じょうご》みたようにだんだん深くなる。と同時に今まで気のつかなかった方面へだんだん発展して範囲が年々広くなる。
要するにただいま申し上げた二つの入り乱れたる経路、すなわちできるだけ労力を節約したいと云う願望から出て来る種々の発明とか器械力とか云う方面と、できるだけ気儘《きまま》に勢力を費したいと云う娯楽の方面、これが経となり緯となり千変万化|錯綜《さくそう》して現今のように混乱した開化と云う不可思議な現象ができるのであります。
そこでそう云うものを開化とすると、ここに一種妙なパラドックスとでも云いましょうか、ちょっと聞くとおかしいが、実は誰しも認めなければならない現象が起ります。元来なぜ人間が開化の流れに沿うて、以上二種の活力を発現しつつ今日に及んだかと云えば生れながらそう云う傾向をもっていると答えるよりほかに仕方がない。これを逆に申せば吾人の今日あるは全くこの本来の傾向あるがためにほかならんのであります。なお進んで云うと元《もと》のままで懐手《ふところで》をしていては生存上どうしてもやり切れぬから、それからそれへと順々に押され押されてかく発展を遂げたと言わなければならないのです。してみれば古来何千年の労力と歳月を挙《あ》げてようやくの事現代の位置まで進んで来たのであるからして、いやしくもこの二種類の活力が上代から今に至る長い時間に工夫し得た結果として昔よりも生活が楽になっていなければならないはずであります。けれども実際はどうか? 打明けて申せば御互の生活ははなはだ苦しい。昔の人に対して一歩も譲らざる苦痛の下に生活しているのだと云う自覚が御互にある。否開化が進めば進むほど競争がますます劇《はげ》しくなって生活はいよいよ困難になるような気がする。なるほど以上二種の活力の猛烈な奮闘で開化は贏《か》ち得たに相違ない。しかしこの開化は一般に生活の程度が高くなったという意味で、生存の苦痛が比較的柔げられたという訳ではありません。ちょうど小学校の生徒が学問の競争で苦しいのと、大学の学生が学問の競争で苦しいのと、その程度は違うが、比例に至っては同じことであるごとく、昔の人間と今の人間がどのくらい幸福の程度において違っているかと云えば――あるいは不幸の程度において違っているかと云えば――活力消耗活力節約の両工夫において大差はあるかも知れないが、生存競争から生ずる不安や努力に至ってはけっして昔より楽になっていない。否昔よりかえって苦しくなっているかも知れない。昔は死ぬか生き
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