ず》がある。右の肩から左へ斜《はす》に切りつけた刀の痕《あと》が見える。玉を並べた様な鋲《びょう》の一つを半ば潰《つぶ》して、ゴーゴン・メジューサに似た夜叉の耳のあたりを纏《まと》う蛇の頭を叩いて、横に延板の平な地へ微《かす》かな細長い凹《くぼ》みが出来ている。ウィリアムにこの創《きず》の因縁を聞くと何《なん》にも云わぬ。知らぬかと云えば知ると云う。知るかと云えば言い難しと答える。
 人に云えぬ盾の由来の裏には、人に云えぬ恋の恨みが潜んでいる。人に云わぬ盾の歴史の中《うち》には世もいらぬ神もいらぬとまで思いつめたる望の綱が繋《つな》がれている。ウィリアムが日毎夜毎に繰り返す心の物語りはこの盾と浅からぬ因果の覊絆《きずな》で結び付けられている。いざという時この盾を執って……望はこれである。心の奥に何者かほのめいて消え難き前世の名残の如きを、白日の下に引き出《いだ》して明ら様に見極むるはこの盾の力である。いずくより吹くとも知らぬ業障《ごうしょう》の風の、隙《すき》多き胸に洩《も》れて目に見えぬ波の、立ちては崩《くず》れ、崩れては立つを浪なき昔、風吹かぬ昔に返すはこの盾の力である。この盾だにあらばとウィリアムは盾の懸かれる壁を仰ぐ。天地人を呪うべき夜叉の姿も、彼が眼には画ける天女《てんにょ》の微かに笑《えみ》を帯べるが如く思わるる。時にはわが思う人の肖像ではなきかと疑う折さえある。只抜け出して語らぬが残念である。
 思う人! ウィリアムが思う人はここには居らぬ。小山を三つ越えて大河を一つ渉《わた》りて二十|哩《マイル》先の夜鴉《よがらす》の城に居る。夜鴉の城とは名からして不吉であると、ウィリアムは時々考える事がある。然しその夜鴉の城へ、彼は小児の時|度々《たびたび》遊びに行った事がある。小児の時のみではない成人してからも始終|訪問《おとず》れた。クララの居る所なら海の底でも行かずにはいられぬ。彼はつい近頃まで夜鴉の城へ行っては終日クララと語り暮したのである。恋と名がつけば千里も行く。二十哩は云うに足らぬ。夜を守る星の影が自《おの》ずと消えて、東の空に紅殻《べにがら》を揉《も》み込んだ様な時刻に、白城の刎橋《はねばし》の上に騎馬の侍が一人あらわれる。……宵の明星が本丸の櫓《やぐら》の北角にピカと見え初《そ》むる時、遠き方より又|蹄《ひづめ》の音が昼と夜の境を破って白城の方へ
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