す。投げ出《いだ》したる足の、長き裳《もすそ》に隠くるる末まで明かに写る。水は元より動かぬ、女も動かねば影も動かぬ。只弓を擦《す》る右の手が糸に沿うてゆるく揺《うご》く。頭《かしら》を纏《まと》う、糸に貫いた真珠の飾りが、湛然《たんぜん》たる水の底に明星程の光を放つ。黒き眼の黒き髪の女である。クララとは似ても似つかぬ。女はやがて歌い出す。
「岩の上なる我《われ》がまこと[#「まこと」に傍点]か、水の下なる影がまこと[#「まこと」に傍点]か」
清く淋《さび》しい声である。風の度《わた》らぬ梢《こずえ》から黄な葉がはらはらと赤き衣にかかりて、池の面に落ちる。静かな影がちょと動いて、又元に還る。ウィリアムは茫然《ぼうぜん》として佇《たた》ずむ。
「まこと[#「まこと」に傍点]とは思い詰めたる心の影を。心の影を偽りと云うが偽り」女静かに歌いやんで、ウィリアムの方《かた》を顧みる。ウィリアムは瞬きもせず女の顔を打ち守る。
「恋に口惜《くや》しき命の占《うら》を、盾に問えかし、まぼろし[#「まぼろし」に傍点]の盾」
ウィリアムは崖《がけ》を飛ぶ牡鹿《おじか》の如く、踵《くびす》をめぐらして、盾をとって来る。女「只懸命に盾の面《おもて》を見給え」と云う。ウィリアムは無言のまま盾を抱《いだ》いて、池の縁に坐る。寥廓《りょうかく》なる天の下、蕭瑟《しょうしつ》なる林の裏《うち》、幽冷なる池の上に音と云う程の音は何《なん》にも聞えぬ。只ウィリアムの見詰めたる盾の内輪が、例の如く環《めぐ》り出すと共に、昔しながらの微《かす》かな声が彼の耳を襲うのみである。「盾の中に何をか見る」と女は水の向より問う。「ありとある蛇の毛の動くは」とウィリアムが眼を放たずに答える。「物音は?」「鵞筆《がひつ》の紙を走る如くなり」
「迷いては、迷いてはしきりに動く心なり、音なき方に音をな聞きそ、音をな聞きそ」と女半ば歌うが如く、半ば語るが如く、岸を隔ててウィリアムに向けて手を波の如くふる。動く毛の次第にやみて、鳴る音も自《おのず》から絶ゆ。見入る盾の模様は霞《かす》むかと疑われて程なく盾の面に黒き幕かかる。見れども見えず、聞けども聞えず、常闇《とこやみ》の世に住む我を怪しみて「暗し、暗し」と云う。わが呼ぶ声のわれにすら聞かれぬ位|幽《かす》かなり。
「闇に烏を見ずと嘆かば、鳴かぬ声さえ聞かんと恋わめ、――身
前へ
次へ
全28ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング