る。とまる前足に力余りて堅き爪の半ばは、斜めに土に喰い入る。盾に当る鼻づらの、二寸を隔てて夜叉の面に火の息を吹く。「四つ足も呪われたか」とウィリアムは我とはなしに鬣《たてがみ》を握りてひらりと高き脊に跨《また》がる。足乗せぬ鐙《あぶみ》は手持無沙汰に太腹を打って宙に躍る。この時何物か「南の国へ行け」と鉄|被《き》る剛《かた》き手を挙げて馬の尻をしたたかに打つ。「呪われた」とウィリアムは馬と共に空《くう》を行く。
 ウィリアムの馬を追うにあらず、馬のウィリアムに追わるるにあらず、呪いの走るなり。風を切り、夜を裂き、大地に疳《かん》走《ばし》る音を刻んで、呪いの尽くる所まで走るなり。野を走り尽せば丘に走り、丘を走り下れば谷に走り入る。夜は明けたのか日は高いのか、暮れかかるのか、雨か、霰《あられ》か、野分《のわき》か、木枯か――知らぬ。呪いは真一文字に走る事を知るのみじゃ。前に当るものは親でも許さぬ、石蹴る蹄《ひづめ》には火花が鳴る。行手を遮《さえぎ》るものは主《しゅ》でも斃《たお》せ、闇吹き散らす鼻嵐を見よ。物凄き音の、物凄き人と馬の影を包んで、あっと見る睫《まつげ》の合わぬ間に過ぎ去るばかりじゃ。人か馬か形か影かと惑うな、只呪いその物の吼《たけ》り狂うて行かんと欲する所に行く姿と思え。
 ウィリアムは何里飛ばしたか知らぬ。乗り斃した馬の鞍に腰を卸して、右手《めて》に額を抑えて何事をか考え出《いだ》さんと力《つと》めている。死したる人の蘇《よみがえ》る時に、昔しの我と今の我との、あるは別人の如く、あるは同人の如く、繋《つな》ぐ鎖りは情けなく切れて、然《しか》も何等かの関係あるべしと思い惑う様である。半時なりとも死せる人の頭脳には、喜怒哀楽の影は宿るまい。空《むな》しき心のふと吾に帰りて在りし昔を想い起せば、油然《ゆうぜん》として雲の湧《わ》くが如くにその折々は簇《むら》がり来《きた》るであろう。簇がり来るものを入るる余地あればある程、簇がる物は迅速に脳裏を馳け廻《めぐ》るであろう。ウィリアムが吾に醒《さ》めた時の心が水の如く涼しかっただけ、今思い起すかれこれも送迎に遑《いとま》なきまで、糸と乱れてその頭を悩ましている。出陣、帆柱の旗、戦……と順を立てて排列して見る。皆事実としか思われぬ。「その次に」と頭の奧を探るとぺらぺらと黄色な※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−8
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