《しわ》って馬と馬の鼻頭《はなづら》が合うとき、鞍壺《くらつぼ》にたまらず落ちたが最後無難にこの関を踰《こ》ゆる事は出来ぬ。鎧《よろい》、甲《かぶと》、馬|諸共《もろとも》に召し上げらるる。路を扼する侍は武士の名を藉《か》る山賊の様なものである。期限は三十日、傍《かたえ》の木立に吾旗を翻えし、喇叭《らっぱ》を吹いて人や来ると待つ。今日も待ち明日《あす》も待ち明後日《あさって》も待つ。五六三十日の期が満つるまでは必ず待つ。時には我意中の美人と共に待つ事もある。通り掛りの上臈《じょうろう》は吾を護《まも》る侍の鎧の袖《そで》に隠れて関を抜ける。守護の侍は必ず路を扼する武士と槍を交える。交えねば自身は無論の事、二世《にせ》かけて誓える女性《にょしょう》をすら通す事は出来ぬ。千四百四十九年にバーガンデの私生子[#「私生子」に傍点]と称する豪のものがラ・ベル・ジャルダンと云える路を首尾よく三十日間守り終《おお》せたるは今に人の口碑に存する逸話である。三十日の間私生子[#「私生子」に傍点]と起居を共にせる美人は只「清き巡礼の子」という名にその本名を知る事が出来ぬのは遺憾《いかん》である。……盾の話しはこの時代の事と思え。
この盾は何時の世のものとも知れぬ。パヴィースと云うて三角を倒《さかし》まにして全身を蔽《おお》う位な大きさに作られたものとも違う。ギージという革紐《かわひも》にて肩から釣るす種類でもない。上部に鉄の格子《こうし》を穿《あ》けて中央の孔から鉄砲を打つと云う仕懸《しかけ》の後世のものでは無論ない。いずれの時、何者が錬《きた》えた盾かは盾の主人なるウィリアムさえ知らぬ。ウィリアムはこの盾を自己の室《へや》の壁に懸けて朝夕《ちょうせき》眺めている。人が聞くと不可思議な盾だと云う。霊の盾だと云う。この盾を持って戦に臨むとき、過去、現在、未来に渉《わた》って吾願を叶える事のある盾だと云う。名あるかと聞けば只|幻影《まぼろし》の盾と答える。ウィリアムはその他を言わぬ。
盾の形は望《もち》の夜の月の如く丸い。鋼《はがね》で饅頭《まんじゅう》形の表を一面に張りつめてあるから、輝やける色さえも月に似ている。縁《ふち》を繞《めぐ》りて小指の先程の鋲《びょう》が奇麗に五分程の間を置いて植えられてある。鋲の色もまた銀色である。鋲の輪の内側は四寸ばかりの円を画《かく》して匠人の巧を尽
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